[ことば日本史] けりがつく。つきあい。あげく

「ことば日本史」平安時代から

平安時代のことば、と言えば、やっぱり和歌
そんな和歌から生まれたことばをいくつか紹介しましょう

けりがつく
延喜5(905)年、初の勅撰和歌集「古今和歌集」では、
収録された1111首中の79首に「けり」がつくという。
醍醐天皇が作りなさいと命令

そんな風に天皇が指示して作られた和歌集を勅撰和歌集と言います。
8つです
『古今和歌集』(こきんわかしゅう)
『後撰和歌集』(ごせんわかしゅう)
『拾遺和歌集』(しゅういわかしゅう)
『後拾遺和歌集』(ごしゅういわかしゅう)
『金葉和歌集』(きんようわかしゅう)
『詞花和歌集』(しいかわかしゅう)
『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)
『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)
覚え方は
古い・五千円・拾った・後、金曜・しか・せん・深呼吸

「けり」 は、完了の助動詞。
歌の最後につくことが多いので、苦労して歌を詠んで、
なんとか「けり」までいって、
ハア、これでおしまい、ホッ

「けりがつく」という言い方が生まれました

つきあい
室町時代のことだが、連歌の集まり「付合(つきあい)の会」が盛んに行われた。
それが付合と略され、
また人の交流についても、つきあいと呼ぶようになりました。

あのふたり怪しいなあ
つきあってんじゃないの?

うちの仲の良いセキセイインコ
キャベちゃんとおこめちゃんは
つつっきあっています

あげく
連歌の最後の句を「挙句」という。
この句が出れば、終わりである。
そこから「ついに」「とうとう」というような意味に転用され、
さらには「あげくのはてに」というような強調した言い方も生まれた。

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[ことば日本史] 遠くて近きは男女の仲

「ことば日本史」平安時代から

枕草子
平安時代の文学と言えば、なんといっても両巨頭
紫式部と清少納言ですね

子供の頃は、清少 納言だと思っておりましたが
清 少納言 だったんですね

紫式部と清少納言と言えば対照的な人生
私は判官贔屓なのでに、清少納言に気持ちが寄ります。

紫式部は彰子に仕え、清少納言は定子に仕える
両方一条天皇の奥さん

定子は、一条天皇に思いきり愛されるけど
結局、藤原道長が圧倒的な権力を持つので
道長の娘の彰子がどーん

国中の超優秀な女性を、道長の権力で集めに集める
紫式部を筆頭に和泉式部等々、百人一首にある人だけでも何人いたろう

一方の定子の方は状況的には先細りなんだけど
定子自体がものすごい能力を持っている

清少納言とかを集めて
お題を出す

春と言えば?

そうねえ曙かしら
やうやう白くなりゆく山ぎはがすこしあかりて、なんて最高じゃない?

紫だちたる雲がほそくたなびいちゃったらもう、トローンよ

良いわね良いわね
今の書いておいてね、清ちゃん

清少納言は議事録係

だんだん、お題も凝ってきます。

遠くて近きはなーんだ

極楽

いきなりすごいの来たわねえ
遠いのに近い
深いわぁ

舟の道

うーん

人の中

男女の仲ね

これには一同ぐっと来るものがあったんじゃないでしょうか

定子にとっての一条天皇

遠くて遠い、かも知れないけど
そこはそう言っちゃいけない

あんなに愛されていた
おそらく今だって

遠くて近い

絶対大丈夫

近うて遠きもの。宮のべの祭り。思はぬはらから、親族(しぞく)の仲。鞍馬のつづらをりといふ道。師走のつごもりの日、睦月むつきの一日の日のほど。
(近くて遠いもの。宮のべの祭り(正月と十二月の最初の午の日に行われた祭り)。
親しく思わない兄弟姉妹、親族の間柄。鞍馬(現在の京都市にある鞍馬山)のつづらおりという道(幾重にも折り曲がった坂道)。十二月の大みそかの日と、正月の一日の間。)

遠くて近きもの。
極楽。舟の道。人の仲。

枕草子については過去にも書いたので
良かったらそっちも読んでね

こんな風に書くと、定子は素敵で、彰子は嫌な奴、ってなりそうだけど
どっこい、彰子は控え目でほんとに良い性格でね
愛されていない訳じゃないけど
定子ほどじゃない

周りに優秀な女性がいればいるほど
自分というものを考えちゃう

定子や、定子の子供を精一杯面倒見るんです。

近くにいる一条天皇を見て
彰子こそ、ずっと呪文のように唱えていたんじゃないかと思う

遠くて近きは男女の仲
遠くて近きは男女の仲

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[ことば日本史] くわばらくわばら

「ことば日本史」から、平安時代です。

ことば、日本史、とくればやっぱりこれでしょう

くわばら
前回、藤原氏が権力を握って、というところの話でしたが
ずっと権力を握りっぱなしだった訳ではありません。

意欲的な天皇は藤原氏以外の有力者を登用した

その典型が菅原道真(すがわらみちざね)

百人一首シリーズでも、出てきましたし
このたびは

神社シリーズでも出てきました
[神社] 菅原道真が天神様と言われる訳

もちろん、天皇シリーズでも
[天皇]60 醍醐天皇。貴族にとって、たたりとは。

藤原時平との確執
はめられて、太宰府へ左遷

失意の中に亡くなった

ここまでなら、残念でしたね
というだけなんですが

ここからが菅原道真のすごいところ

それまでも、貴族の世界でばくっと信じられてきた「怨霊(おんりょう)」というものを
行動指針にまでしてしまった

不幸な死に方をした人は、恨みが形となった、怨霊がかたき討ちで次々と悪いことを起こす。

藤原時平とその一派は次々と不審な死を遂げていく

最後に極めつけとなったのが清涼殿落雷事件
藤原時平派が会合していたところ
それまで晴れていたのに、突然黒い雲が空一面を覆い
ガラガラドッシャーン

落雷で、時平派のメンバーは真っ黒焦げになり即死

おそろしやぁ

それ以降、菅原道真の怨霊に鎮まってもらうべく
天神様という神様として祀ったり
官位も最高のものを与えたり。

庶民だってこの手の話は大好きなので
怨霊の雷の話で持ちきり

京都の菅原道真の所領だった桑原荘
周りは雷からの火事で丸焼けになったのに、
ここだけは、何の被害もなかったという噂になります。

そして、被害が及びそうになったときに避けるおまじない
くわばらくわばら、が広まっていきます。

ちなみに今京都で「桑原」はほんの一画に地名だけ残っています。

桑原町は京都のど真ん中。
でも誰も一人も住んでいない。
何故なら、幅の広い道路が通っているその上だけだから。

京都御所の周りの道路上

ここです

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[ことば日本史]藤原氏の台頭から。勧学院の雀

ことば日本史、まだまだ平安時代

藤原氏
平安時代と言えばやっぱり藤原氏

藤原良房は貞観8年(866)、臣家で初の摂政となった。
摂関家としての藤原北家の栄華の発端が開かれたのである。

藤原氏の覚え方は
不良をもっと正さねば道は通れぬ
藤原冬嗣(不)・良房(良)・基経(もっ)・時平(と)・忠平(ただ)・実頼(さね ば)・道長(道 は)・頼通(通 れぬ)

藤原氏私設の学寮、勧学院(かんがくいん)が、大学寮の付属機関として公認された。

藤原氏・勧学院(かんがくいん)
在原氏(ありわらし)・奨学院(しょうがくいん))
和気(わけ)氏・弘文院(こうぶんいん)
橘氏(たちばなし)・学館院(がっかんいん)
空海・綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)
って色々あるのよね

今、門前の小僧習わぬ経を読む、ってことわざがあるけど
これは江戸時代にできたもの

同じ意味は、それまでは
勧学院の雀は蒙求(もうきゅう)をさえずる
って言っていたんです。

貞観13年(871)に大学寮の付属機関として公認されると、
維持管理は藤原氏の長者の権限とされました
蒙求(もうきゅう)は、唐中期の児童用教科書で、
上古から南北朝までの人物伝記や説話を歌いやすく覚えやすい詩にしたもの

勧学院には元服前の年少学生もおり、先輩が「蒙求」を丸暗記させていた
おそらくリズムにのって覚えやすいのかな
ジンム・スイゼイ・アンネイ・イトクみたいな感じでしょうか

その声をいつも聞いていた雀が、「蒙求」をさえずる。
なんとも高尚なすずめ

そういえば御岳山の山の上の茶屋で食事しているとき
ホー ホケキョ
と、とっても良い声で鳴き声が聞こえたのを思い出した。

そのあと、店の奥さんが
すみませーん、今の、この子なんですよ

飼っている大きなインコ

そう言われれば、鶯の鳴く季節ではない
このインコちゃんなら、蒙求だって楽々?

勧学院の出身者は、官学界に進むことによって、藤原氏の栄華をささえ、
またその結果、勧学院の権威をもいっそう高めることにもなった。
このような教育上の特権も、藤原氏の栄華を導いていたのである

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