忘れてたっ。江戸検定1級。

先週、ポストを確認
ええっと、これは?

あああっ。すっかり忘れてた。
江戸検定1級だ!

受験日は10/27
もうすぐやん。

全く、なーんにも勉強しておりません。

去年ようやく、3年かかって2級に受かり
1級への挑戦資格を得る

今年がその1年目

べらぼうに難しいので、1年やそこらで受かる代物じゃございません。

どうやっても手が届かない試験って、やる気が沸いてきません。
とは言え、毎年そんなこと言っていたら
何年経っても状況は変わりません。

少しでも前に進んでおかなきゃ。

受験日の一週間前に言うべき事ではありませんね。

今日は即位の礼で祝日。
パレードは残念ながら中止。
そうは言っても即位の礼はやるわけだから
皇居に行けば何かあるだろうと思って宮内庁のホームページを見ると
皇居や、東御苑は一般人立入禁止
なるほどそう来たか

しかもけっこうの雨

これはひょっとして
お出掛けばっかりしてないで
受験の一週間前くらいは勉強しなさいという天の声

分かりました。
反省します。

試し
過去7年分の過去問を購入してあります。

既に3年分は過去にやりました。
江戸検定1級、始動だっ
来たーっ、正式通知。江戸検定2級合格
67点、47点、37点

80点合格だから、まだまだ先
やる度に、下がってきているのが気になります。

さあ、直前力試しをやってみるかな

回答用紙は、相馬屋の原稿用紙にしよう。

うーん
相変わらず難しい
なんじゃこりゃ
4択なんだけど
全ての答を見たことない
考えようがなく、笑いしか出てきません。

結果
48点

どうです?
相馬屋の原稿用紙

そういう問題じゃないか

もう一年分やってみよう

43点

だめだ。減っていく。

過去問5年分の平均が48点
やっぱり50点行かないか

ここで、いくつか問題を紹介しましょう。
答えはすぐあとで書くから、手で隠しながら考えてくださいね。

【問1】
寛永20年(1643)刊行の 「料理物語」をはじめ、江戸時代に出版された料理
書のほとんどが、「吸い物の部」と「汁の部」を分けて記しています。 さて、
この「吸い物」と「汁」の違いは、どんなことでしょう?
い)現在のすまし汁が「吸い物」、味噌汁が「汁」
ろ)春·夏に出すのが「吸い物」、 秋·冬に出すのが「汁」
は)酒肴(しゅこう)として出すのが「吸い物」、食事に添えるのが「汁」
に)具に魚介が入っているのが 「吸い物」、肉が入っているのが「汁」

【問2】
〈初松魚(はつがつお)【 】がなくて涙かな〉
〈其【 】きいて涙の松魚(かつお)かな>
これは三宅島に遠島になった絵師の多賀朝湖(たがちょうこ)(のちの英一蝶(はなぶさいっちょう))が、
島から俳人の宝井其角(たからいきかく)に送った句と、 其角の返句です。
【 】には、江戸時代に鰹の薬味として使われた香辛料名が入りますが、 次のどれでしょう?
い)辛子(からし)
ろ)胡椒(こしょう)
は)生姜(しょうが)
に)山葵(わさび)

【問3】
江戸幕府の役職のうち、 御家人の土田家が代々世襲した 「公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)」
という役職は、将軍が上洛したときに特別な任務を勤める役職でした。
その任務は、どのようなことだったでしょう?
い)将軍に参内(さんだい)用の化粧を施す
ろ)将軍が牛車(ぎっしゃ)から降りる際に踏台になる
は)将軍が朝と夕に禊(みそぎ)を行なう際に水を汲む
に)将軍の外出の際、尿筒(しとづつ)を懐中に持ち付き従う

【問4】
御徒(おかち)は御家人の役職のひとつで、鷹狩などで将軍が外出する際に随行して警備
にあたりました。
このとき、御徒は少し変わった衣服を着用しましたが、それは次のうちどれでしょう?
い)出陣のときと同じく、甲冑(かっちゅう)
ろ)町火消と同じく、火事装束(しょうぞく)
は)将軍と同じく、黒縮緬(くろちりめん)の羽織
に)切腹のときと同じく、浅黄色で無紋の上下(裃)

【問5】
マシュー·ペリーが1857年刊「日本遠征記」の中で日本のある慣習を厳しく批判したため、
その後、欧米では日本人蔑視論が相次いで発表されました。
タウンゼント·ハリスも「どうしてこのような品の悪いことをするのか、判断に苦しむ」と書いている、
その慣習は何でしょう?
い)お歯黒
ろ)お見合い
は)混浴
に)三行半(みくだりはん)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
覚えてなきゃ、どうにも答えようがない問題は面白くないので
考えるとある程度絞られる問題を選んでみました。

それでは答

【答1】
は)
私はたまたま会いました
雰囲気のある良い問題ですね

【答2】
い)
これ、迷いました。
涙と言っているので素直に考えるとわさびなんだけど
だとすると、問題にするかなあと
わさびって鰹にはあんまり合わないなあと思いつつ
結局わさびと答えたら、辛子
難しかったなあ

【答3】
に)
これも随分迷いました。
通常、将軍は外出の時、尿筒を使うと言うのは知っていたんだけど
わざわざ、将軍が上洛したときに、という表現が引っ掛かった。
上洛に限らず、外出の時は使うしなあ、と思い、最初に消した。
「朝夕」という言葉で随分悩んだんだけど
結局、参内(さんだい)用の化粧と考えてブッブー
1級は表現が微妙なのが多いです。

【答4】
は)
さすがに切腹はなかろうと、に)は外したけど
他は全てありそうで
結局は、将軍と同じなの?って疑問を持ちつつ、消去法でかろうじて正解

【答5】
は)
すぐ混浴だろうとは思った
ほとんどの外国人に強烈に非難されましたからね
ただ、お歯黒もかなり評判悪かったんですよね
結局「品の悪い」という表現から、ギリギリ正解。

みなさん、どうでしたでしょうか。

明日、もう少し紹介してみたいと思います。

[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)

[大岡越前] 構造改革あれもこれも

「江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革」という本を読みました。

大岡越前
♪ルールー ルルルルルールルー ルルルルルルー
出ました、大岡越前 かっこいいー

テレビの影響で、お白州で名裁き、のイメージです。
もちろんそれはそれで正しいのですが
この本を読んでびっくり

裁判官としての顔は、ほんの一面
吉宗の片腕として、実に色んな改革に、実際に携わる

江戸町奉行という職務は
東京都知事、警視総監、消防総監、東京地方裁判所を兼ねたような役職だが
大岡越前は、評定所(ひょうじょうしょ)のメンバーにもなっている。

評定所とは、縦割り組織では解決できないような事を扱うところ
例えば厚生労働省と文部科学省をまたがるような事案を検討するところ
老中からの諮問を受け、実務的観点から意見を述べ、決定までもっていく
早い話が国政の一番重要な役どころ

とても異例なんですが、大岡越前は、勘定奉行の役割を半分やっています。
要は経済産業省

本を読むと、えっそれ吉宗のやったことだよね、というのがずらずら
確かに、吉宗の享保の改革は、いろんなことを途中で方針転換しながら進んでいくので
大岡越前が、実際にやってみて、悪影響が出たら方針を変えるというのを頻繁にやったと思われます。

特に、矛盾する政策を同時並行でやっています。
緊縮財政を行いながら、景気刺激策を取る
物価抑制を図りつつ、米価に関しては、物価をあげるために四苦八苦している

大岡家は大名ではなく、旗本
幕臣、すなわち、政府の官僚として、実務を行う役回り
その実務方のトップは町奉行です。

実務の事の何から何まで分かっていないといけないから
色んな何とか奉行を全国転々としながら全て経験してからでないと、江戸町奉行にはなれない
産まれながらにしてお殿様、という大名とは違い、旗本は成果主義

普通、江戸町奉行になるときはおじいちゃん、て事が多いんだけど
大岡越前は異例づくめのスピードでポンポン出世
町奉行の手前まで出世した時点で、ちょうど吉宗が将軍になった。

そんなすごいのがいるのか
すぐに江戸町奉行として呼び寄せる。
40歳。
結果として、20年間、色んな改革を進めることが出来た。
バックに吉宗という良き理解者がいたからね
やれやれーって

やっぱり、改革はある程度の期間継続してやらないと、結果が出ません。

このあと、何回かに渡って何をしたかまとめていきます

私が一番知りたかったのは、物価政策
何度か書いているけど、江戸庶民って、遊ぶことに一生懸命で月の半分も働いたらあとは遊んじゃう。
なんでそんな事が可能だったのか、ずっと疑問だった。

一番の要因は、物価だったのだろう。
物価と賃金(収入)のバランスが良かったんだろう、とは思うんだけど
自然にそうなったのかなあ、
誰かがちゃんと考えてそうしたんじゃないか
と、ずっと思っていた。

この本を読んで、やっぱり「誰か」はいたし
その「誰か」の一人が大岡越前だったんだと分かった。

その具体策は、もったいぶって次回以降に回すとして
まずは、行政組織改革から

行政組織改革
江戸の行政組織ってとても小さな政府
これは、大岡越前がということではなく、最初から。
町人は50万人もいるのに、北町奉行配下に、警察的役割をする、与力(よりき)が25人、その下の同心が100人
南町奉行配下にも同数。合計で、250人しかいません。
何かを取り締まるなんて不可能。
町の数は八百八町というけど、実際にはほぼ倍の1600町

行政のお役人としては、管理は無理なので、町の代表者たちに自主管理させる。
良く言えば民間活用。
学校で言うとクラス委員長みたいな感じ
名主(なぬし)と言います。

ひとりの名主が7~8町を受け持つ。人数にすると2000人以上を支配している。
この人たちがありとあらゆることを行う。
その下にもさらに組織が分かれていくんだけど、一旦省略

名主の見分け方は、玄関があること。
名主以外の人は、家に玄関をもうけてはいけません。
みんなには、名主たちは「名主」とは呼ばれず、玄関と呼ばれています。

名主はやることが多岐に渡り、実施するための費用は、町入用(ちょうにゅうよう)と言い
各戸の地主から徴収する。
即ち全て民間の費用。
大岡越前の頃まで、江戸が始まって随分経っているので、この仕組みにも問題点が増えてきていた。
町入用は肥大化し、庶民の負担が大きくなっていた。
特権を持った名主たちは、一部ですが甘い汁を吸っていた。

ここに、大岡越前が手を入れる。
不正があると見せしめ的に摘発し、厳罰に処する
世襲していた名主だったが、死亡すると息子には継がせず、隣町の名主に兼任させた。

行政のスリム化
民間なんだけどね

こりゃたまらんと、名主たち。
絶対悪いことしませんから、人数減らすことは勘弁願えませんか
町入用も減らします。

ほんまやな
ほんまにほんまやな

って事で、十七番からなる名主組合を作らせる。
組合のリーダーは、持ち回りで、内部の名主が悪いことをしていないか調査を担当

第三者委員会じゃなくて良いのかな、って気もするけど
彼らも必死。今度問題起こしたら、本当に減らされちゃう。
とっても真面目にやります。

以降、色んな改革がどんどん行われますが
実施に移すにおいて、この名主組合がとても良く機能します。

では、シリーズの次回から
具体的な改革の内容を話していきますね。

[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)

時そばは、なぜどこが面白いのか

落語で読み解く「お江戸」の事情、という本を読みました。

時そば
お馴染みです。

十六文の屋台のそばを食べて、お勘定という時

小銭だから、間違えるといけねえや
手を出してくんねぇ。勘定して渡すから

いいかい、それ
ひぃ ふぅ みぃ よぉ いつ むぅ なな やぁ

今なんどきでぃ?

ここのつで

とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六

まんまと一文ごまかして行ってしまった。

このやり取りを見ていた男
あくる日に、意気揚々とそばを食べて、お勘定

小銭だから、間違えるといけねえや
手を出してくんねぇ。勘定して渡すから

いいかい、それ
ひぃ ふぅ みぃ よぉ いつ むぅ なな やぁ

今なんどきでぃ?

へぇ、よつで

いつ むぅ なな やぁ ここのつ とお、・・・

落ちもお馴染みですね

クイズ
翌日は違う時間でやっちゃったんだな、ということは分かります
最初は九つ、次の日は四つ

さあ、ここで問題です。
【問題】
さあ、この二つの時間、
今の時間で言うと、どれくらいの時間離れているでしょう。

答えは、後で書きますので考えてね

江戸の時刻
江戸時代の時刻について分かっていれば、この落語

なるほど、そう来たか
みたいに楽しめます。

江戸時代の時刻は不定時法
お日様が登るときが明け六つ
お日様が沈むときが暮れ六つ
その間が6つに分かれます。
一刻(とき)は、年間で平均すれば、今の約2時間ですが
夏はそれより長く、冬はそれより短くなります。

明け六つの次は七つかと思うと逆で、五つです
春分ないしは秋分の日だとすると、午前8時
その次は?
はい四つです。午前10時です。
その次は?三つ?
いえ、これがなんと、九つなんです。
正午に九つになり、2時で八つ、4時で七つ、6時で(暮れ)六つ
また、五つ、四つと減り、真夜中0時に九つに戻ります。

3時のおやつ、というのはここから来ています。
午後3時は、まだギリギリ八つです。

だんだん、答えが分かってきましたね
ポイントは9のとなりが4だということです。

何で9から減っていくかというと
おそらく中国とかで、一刻(とき)を9個に割った時間のあったんじゃないかと思われます。
だから最初は9のとき。
次はその倍なので、18のとき。
途中で、10の位を言うのがめんどくさくなって、八つ
次はクサン27だから七つ
クロク54の四つの後、正午になると最初に戻るからまた九つ

ところで、九つと言っても、真夜中と、正午、二通りあり得ます。
今でこそ東京は眠らない街
コンビニは24時間営業すべきかともめています。
でも、江戸時代は街灯なんてありません。
真夜中は真っ暗でしょう、と思うんですが
どうも、この九つは真夜中のようです。

蕎麦屋の屋台は、夜鷹と呼ばれる低俗な娼婦を主な客とする夜鷹蕎麦というのがあって
深夜でも営業している。

また、16文というのもポイントです。
江戸時代の蕎麦屋は、江戸時代の文化文政時代という、終盤に近い時代に一般化します。
それまでの蕎麦は蕎麦がきを食べるもので、
あんな細長いものは、あるにはあったが、一般的ではなく、敢えてあの形状の蕎麦を言いたいときは
蕎麦切り、と表現していたくらい。

どちらかというと、江戸でも、蕎麦切りより、うどんの方が食べられていた。
文化文政時代に、鰹節、濃口醤油、みりんという江戸の味の元が開発されて
一気に蕎麦が一般化する
そのあとは、ずっと一杯の蕎麦の値段は16文にほぼ統一される。
二八16なので洒落で、二八の蕎麦と言えば16文のそばのこと。

この時そばも、最初は関西の落語、時うどんで始まり
時そばにアレンジされて江戸で広まっています。

【答】
最初の時が、23時から1時までの間
二日目の時が、21時から23時までの間
最短で1分、最長でも4時間です。
ただし、春分ないしは秋分の日の場合ですけど。

早い話が、ほとんど変わらない時間に実行したのに
1文得する筈が4文も損しちゃった。
この落差が笑えるってことになります。

失礼。笑える理由を説明するほど野暮(やぼ)な事はありませんね

[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)

玉川上水ウォーキング、第4コーナー回りました。

繋いで繋いでの、玉川上水を辿るウォーキング
またまた玉川上水。続けて繋げてまた続けて。
の続きです。

出掛ける前に図書館に寄って
玉川上水がらみの薄目の二つの本を借りてきました。
それをバスの中で読みながらのスタートです。

久我山
前回は久我山まで行きました。

さあ、続きだ。
今日は、暗渠(あんきょ=地下に埋まるタイプ)になってしまう手前くらいまでは行きたいなぁ

はい、岩崎橋。ここから

さっきの本で、開渠の清流復活ルートは、浅間橋(せんげんばし)までってあったな

げろっ
げろげろっ

岩崎橋の次は、浅間橋
あとひとつしかないの?
それだったら、前回、キリの良い浅間橋まで行っときゃ良かったなぁ

浅間橋

ああ、お水さん、さようなら

ここで、水は地下に潜り
こんな大通りの下を流れる(上は首都高)

第六天神社

この神社、彫り物がすごいのなんの

環八

ここで下を流れる水は二手に分かれ
左折する方は環八の下を流れて、神田川に注ぎ込みます。
玉川上水と神田上水の合体です。

あれっ、とっても不思議なもの

何でしょ
お寺のようです。
お休みでしょうか、入口も閉まっているし、誰一人いません。
身代り不動尊と言って、川崎の高津にあるものの別院らしいです。

ウォーキングしていると色々面白いものに出会えます。

玉川上水公園
ああ、良かった。
暗渠で、どこを流れているか分からなくなったらどうしようと思っておりましたが
ちゃんとその上が公園になっている
玉川上水公園とのネーミング。
説明板まで

見落としていて、後で再度本を読んで分かったんですが
この説明板の辺りから
下高井戸分水が枝分かれしていたそうです。

この前を通っているのは甲州街道ですが、その一里塚も近くにありました。


おおっ
おかえりなさい。お水さま


下からポンプで汲み上げたんでしょうか

汽車だって走っています。

船だって

おっと、これは
今は水が干上がっていますが
ひょっとして開渠にしている区間では?

大感動!
この一連の公園の最後の方で
でっかい管
本によると、2条の送水管
上は朝霞浄水場に向かう加圧された水が流れるもの。2400mm

下が玉川上水。1800mm

これで、玉川上水は暗渠としてちゃんと流れていることが確認出来ました。

和泉給水所
この玉川上水公園の突き当たりにあるのが
和泉給水所
でかいっ



ここに、水を貯めて加圧して送り出す。
新宿の淀橋浄水場が廃止され、跡地が新宿副都心になる昭和40年までは
玉川上水は、淀橋浄水場への送水機能を持っていた
明治大正昭和に至っても、東京都民の飲料水は、玉川上水が担っていたわけです。

その時は、この和泉給水所で最後にグッと加圧して淀橋浄水場まで水を送り込む重要な役割
旧、玉川上水とは別に、ここ以降で新しい、淀橋浄水場へ向かうルートに変わっていました。
新水路と呼びます。
この地図で上が新水路、下が旧水路

ところが、この新水路も関東大震災(大正12年)で壊滅的打撃
13日間使えなくなります。
その時、何とか東京都民に飲料水を届けられたのは、
旧水路からポンプで送り込んだ水だったというから泣かせます。

その時の反省に基づいて、もっと強固なものに変えようと
新々水路が作られます。

甲州街道を拡幅し、その拡幅されたところに、強固な送水管が埋設されます。
昭和40年までは、その新々水路が頑張り続けます。

続きは明日書くことに致します。

おでかけマップ