高田富士の続き

昨日のお出かけコースには続きがあるので、今日、続きに出掛けましょう。
今日は早めに出て、早く帰ることにいたしましょう。

昨日は、副都心線の雑司ヶ谷を出発して同じく副都心線の隣の駅、西早稲田まで
西早稲田スタートで行きましょう。

西早稲田
「東京記憶の散歩地図」の本に江戸名所図会の話があったので
古地図も開いて見比べながら行きましょう
いつものアプリ「大江戸今昔巡り」を起動

あれ?何だか不思議な地形
なるほど、馬場か。馬がパカパカ
高田馬場ってほんとに高田の馬場だったのね

ちょっと寄り道


「高田馬場跡」みたいな看板も無かったけど、土地割り自体は似たような形でした。

そのまま、大江戸今昔巡りを起動したまま、江戸時代の地図の上を歩きます。

すると
えっ
ええっ
高田富士ってあるじゃないか。

昨日の繰り返しですが
高田富士とは、江戸のあちこちに出来た、富士塚という富士山を模した人工の山の第一号

穴八幡の向かいに大きな宝泉寺ってお寺があって、その中に高田富士の絵
そうか、そこが今、早稲田大学の敷地になっちゃっているということか。

ということは、移転前の高田富士の場所が特定できるかも

法輪寺というお寺は同じ場所に存在していた。

早稲田大学に向かおう
明らかに早稲田大学生ではないハゲ親父ではありますが
真摯にお願いすれば、
早稲田大学は良い大学だから入れてくれるかも

えっ

宝泉寺も実在するのか
そういうと、以前ここをウォーキングしたとき見覚えがある

希望が繋がってきた。

中に入ってもやはり富士塚はない

GPSの青い丸も高田富士の絵のところまでは至らない。

早稲田大学が拡張し、宝泉寺が縮小したということなのでしょう。

おっと、寺務所に人影が見えた。

すみません。
高田富士を探しに来たんですが

今住職が不在なので詳しいことは分からないのですが
確かに高田富士はうちにありました。

今は、早稲田大学の場所ですが。
移転をしまして。

はい。そちらは見てきました。
甘泉園のところですよね。

水稲荷神社はうちが別当として管理していたのですが
水稲荷神社だけが移転したんです。
高田富士を作った日行さんの墓はここにあるんですが。

えっ
高田藤四郎じゃないんですか
どこに墓はあるんですか

教えてもらって墓を確認

まさか、高田富士を作った人の墓が分かるとは。
感激です。

急いで寺務所に戻りました。
ありましたありました。これですね

タブレットを見せます。

すみません。先ほどはおかしなことを言いました。
日行さんと高田藤四郎は同一人物です。

今から早稲田大学に行こうと思うんですが
早稲田大学の中のどの辺りでしょう。

ああ、それは残念です。
いつもは入れるんですけどね
今だけ入れないんです。
ちょうど入学試験なんです。

本当なら早稲田通りの方から細い駐輪所の入口があって、入れるんです。
そこから入るとほんとに小さな碑なんですが、ここに水稲荷神社がありました、って碑があるんです。
残念です。
うちの住職も高田富士を復活させたいと言っていましてね。
高田富士の富士山の石も取ってありますのでね。

ええっ、取ってあるんですか

もし元祖高田富士が出来たら見に来てくださいね

はい。絶対来ます。

あっ、忘れてました。こちらのパンフレット、よろしかったら

裏に高田富士のことがしっかりと書いてあります。
高田藤四郎は日行で、高田富士の場所は早稲田大学9号館

早稲田大学に向かいました。

ものものしい警備
そこを何とか、と言って入れてもらう作戦はあきらめました。
入試でトラブルがあったら新聞に載りますからね

構内地図を写真に取って、9号館と、駐輪所を確認

さあ、駐輪所の入口まで戻りましょう。

あった!

この突き当たりの9号館のところに高田富士があった。
グーグルマップを見ると、富塚跡とあるのが先程言われた碑なのかも知れません。
昨日水稲荷神社の中にあった最初に富士塚と間違った富塚古墳がこれということでしょう

今度、入試じゃない日に来て確認することにしましょう。

穴八幡神社
一度来てますが、ここまで来たら向かいの穴八幡神社にも行きませんとね
八幡神社ファンですし。

流鏑馬(やぶさめ)の神事で有名です。

案内板を見ると

なるほど、昔は高田馬場で流鏑馬やってたのか。
古地図のさっきのところだ。
こうやって繋がると、とてもテンション上がります。

とてもきれいな神社です




このあともまだ続きます。
続きは明日ね

おでかけマップ

鎌倉古道と高田富士

週末ですが、カミさんがいます。
お出かけはあきらめましょう。
カミさんは家でお仕事

カミさんがいるときの掃除はとても大変

いつもやってるようにちゃんとやってね
ハーイ

ソファーをどけたり、拭き掃除したり
はしっこは、細いノズルを使いましょう

クリーニング出してくるね
そのついでにこっそり図書館に寄って
本をまたいっぱい借りてきました。

その中で「東京記憶の散歩地図」という本
東京散歩ものは、ずいぶん読んでかなり歩いちゃってますので
普通のだとほとんど知っていることが多い
この本は心霊スポットとかが好きな小池壮彦さんという人が書いていて
かなり視点が違う。
とても助かります。

読み初めて13:00過ぎ

散歩行ってくれば?

良いの?

気が変わらないうちに、さっきの本と、この前の「東京まちなか超低山」の本を持ってゴー

4時か5時には戻ってきてね

ハーイ

とりあえず電車に乗り、必死に本を読んでどこに行くか決めます。
遠いところは無理だし。
行った事はあるけど、視点が違うので雑司ヶ谷からのこのコースにしよう

雑司ヶ谷から
坂を下って明治通りの学習院坂下
この辺りから、幽霊がタクシーに乗ります

女性の幽霊が「新宿まで」
気づくと女性はおらず、後部座席はじっとり濡れている

雑司ヶ谷霊園が近いのでそういう連想になるのだとのこと。
なぜここまで幽霊が出張してくるかというと
ここまで来ないとタクシーが拾えないから
なるほど、そりゃそうだ。

金乗院(こんじょういん)
金乗院は別名目白不動
五色不動のひとつで丸橋忠弥の墓もあるのでイベントでも来ています。
こちら

まさかここで新たな視点があろうとは

この奥、今墓地になっているところに、関所があった。
しかも、処刑所まであった。
江戸時代よりずっと前、おそらく鎌倉時代

おそらく高台になっているところ
そこからの眺めです

ということなので
前の宿坂という道は何と鎌倉古道だということになります

そう言われると、二つ看板があって、目白不動の話ともうひとつ。

南蔵院と続くこの道もイベントで通ったのに、全然意識していなかったなあ。

ということで、このあと、新たな視点「鎌倉古道を辿る」となります

山吹の里
鎌倉古道が神田川にぶつかる、面影橋のあたりは山吹の里と言われています

七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき
太田道灌と美少女の伝説です。
詳しくはこちら

ここに山吹伝説の碑があります。

本では、この碑の事もかなり詳しくのっています。
貞享三年と彫られているので、貞享三年(1686)年(5代将軍綱吉の頃)に作られたものと思いますよね
残念!
江戸時代にこの碑について書かれた文献がひとつもない。
ここは、明治に田中光顕(土佐藩出身の明治の大物政治家)の一無庵という庵があった
一無庵は別名山吹の里と呼ばれ、入口に「山吹の里」と横書きで書かれた石碑もあった
この縦書きの石碑は、貞享三年に作られた無縁仏の墓石を改造して作られたものだと思われます。

鎌倉古道
神田川を越えて向こう側
ビルとビルの間の隙間に鎌倉古道が続くとなっています。

出ている写真を元にそのビルを探します。

あったぁ

これが鎌倉古道

奥は天祖神社

そして、亮朝院(りょうちょういん)というお寺の墓地の横の崖沿いに鎌倉古道は続いて行きます。


子育て地蔵のところに繋がります。

そこに戦前の西早稲田の街並み、の地図が貼ってあった。
写真に撮って鎌倉古道に色をつけてみるとこんな感じ

高田富士
ここでテーマを変えて、もうひとつの本、「東京まちなか超低山」へ
ここへ来たなら、高田富士

東京まちなか超低山を読んでいてびっくり
甘泉園に、高田富士って絵がついてるぞ
そんなぁ

甘泉園は早稲田の近くの庭園
金乗院にも行った目白からのイベントで立ち寄ったとても良い庭園
まさか、高田富士ってそんな大物を見逃していたなんて

高田富士とは富士塚ファンとしては基本中の基本
江戸に初めて出来た富士塚なんです。
富士塚その1
富士塚その2
作った場所は今の早稲田キャンパスの中ということだったから諦めていた。
それがなぜ甘泉園に?
甘泉園に行ったとき、甘泉園にも隣の水稲荷神社にもそれらしいものは無かったと思う。
そんなの見落とすかなあ

行ってみよう

もう一度本を見ると、水稲荷神社の方

これか?


あとで分かったのは、これは富塚古墳
それはそれで貴重なものだが富士塚ではない

もう一度ゆっくり本を読もう

なるほど、そういうことか

確かに植木職人の高田藤四郎が作った高田富士は今の早稲田キャンパスの場所
甘泉園も水稲荷神社も富塚古墳も今の早稲田キャンパスの場所
早稲田キャンパスが拡張するにあたって
甘泉園も水稲荷神社も富塚古墳も、そして高田富士もごそっと移築した
高田富士は元は10m
丸々壊して、新しい場所に作り直し
今度は6mと少し小さめ

厳密には、日本最古の富士塚と言えないかもしれないけど
やっぱり高田富士は高田富士。特別の意味を持っている

「参道からは山容が見られないこともあって、気づきにくいかもしれない
ましては普段は素っ気なく閉ざされているのでなおさらだ
登拝は7月下旬の二日間だけ」

がぜん挑戦意欲がめらめらと
本の中に地図を見つけた。
そうか、もっと入口近くなのか

正面からは頂上のほんの少ししか見えない

甘泉園側の裏側に回り込み、やっと何とか写せたが、良く分かりませんよね

そもそも、看板もグーグルマップでのポイントも何もない
そりゃ分からなかったはずです。

日本で初めての富士塚なのに。せっかく移築したのになんでそんな扱いなんだろう。
悲しくなります。

7月のその2日間に来るしかないのでしょう。

その日に登った、著者のイラストがこちら

せっかく甘泉園に来たので、写真も撮りました。
やっぱり良い庭園だ

おっと、こんな時間
続きはまたの機会として、今日は帰りましょう

おでかけマップ

[昭和歌謡]102 かもめはかもめ

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです

かもめはかもめ
研ナオコ
作詞、作曲 中島みゆき
1978年

♪あきらめましたあなたのことは
もう電話もかけない
あなたの側に誰がいても
うらやむだけ悲しい
かもめはかもめ
孔雀や鳩や
ましてや女にはなれない
あなたの望む素直な女には
はじめからなれない

研ナオコ
100年に一度出るか出ないかの完璧なエンターティナーだと思います。
両極端の世界を表現出来る人はあまり見たことがない
大好き!の一言に尽きます。

ずっと、見ていたい

・・・

すみません。ちょっと言い過ぎました

かなり長い間、出す歌出す歌売れていた印象です。
その中でも好きだったのは

愚図
♪あの娘はまつげが自慢の娘で
まばたきしながら人を見るのさ
比べて見たって仕方がないよなんて
一人で勝手に決めていたっけ
私って本当に愚図なお人好し

あばよ
♪泣かないで泣かないで 私の恋心
あの人はあの人は私に似合わない

そして、この
かもめはかもめ

今、歌詞書いてても涙がじわっとくる

かもめ
かもめ繋がりで言うと、好きだった歌が浅川マキの「かもめ」
♪おいらの恋した女は 港町のあばずれ いつも
ドアを開けたままで着替えして
男たちの気を引く 浮気女
かもめ かもめ 笑っておくれ

結局、その女を殺しちゃうのよね

♪おいらは恋した女の
部屋に飛び込んで ふいに
ジャックナイフをふりかざして
女の胸に 赤いバラの贈り物
かもめ かもめ かもめ かもめ

昔は暗かったなあ
浅川マキ 山崎ハコ 森田童子

今はパッパラパーなんだけどね

[昭和歌謡]シリーズはこちら(少し下げてね)

鳥羽伏見の戦い前の、西郷隆盛と大久保利通の手紙

磯田道史先生の「日本史の内幕」から

西郷書状
磯田道史先生は古文書オタク
色んな古文書を探しまくり読みまくり、今も日本史に新事実を追加し続けている

そんな中で、西郷隆盛の書状を見つけた
ある古美術商から連絡

こんなの手に入れましたけど

中身を見ると、西郷隆盛が鳥羽伏見の戦いの時に、大久保利通に対して作戦内容を書き送った最重要書状

以前から西郷隆盛全集第二巻に収録されているが、現物が出てきたのは初めて。

全集では、鳥羽伏見の戦いが始まった「正月三日」と書かれているが、それがない
そこだけが不思議だが、筆跡は西郷のもの。間違いない。

西郷の筆跡がすぐ分かるなんてさすが。ただ者ではない。

鳥羽伏見の戦いのおおよその作戦は既に色んな資料から分かっていた。
実は薩摩長州はこの戦いにすんなり勝てると思っていなかった。
幕府軍の兵力は15000。対する薩摩長州軍は5000
量的にはどうにもならない。
質はというと、幕府軍はバックに付いているフランスに近代的訓練を受けていて
新政府軍より勝っているかも知れない。

こりゃあかん

天皇が亡くなってしまうとえらいこと
前の夜にお忍びで西国の方に逃がす
京都の朝廷には有栖川宮と岩倉具視が残り
天皇には中山忠能(ただやす)がお供する
ただ、新政府軍の旗色が良いようであれば、天皇の移動はなし

長州からは、お忍びの移動に三中隊がお供したいと提案してきていた。

これを踏まえ、西郷の手紙にはどう書かれていたか

直前になって、西郷の考えが変わる。

すぐさま天皇を移しては大いに人心に関係するので、暫くは見合わせた方が良くないか
岩倉や同志の公家たちを説得して欲しい

この手紙の内容を見ても、かなり幕府軍の方が有利と思っていて
気持ちが揺れているんだなあと思う

敵の大将がまさか逃げ帰るなんて思いませんものね

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)