品川歴史館は涙もの。モースさんと仮営業の時刻表

品川歴史館は涙もの
の続きです。

1階もお庭も、とても良かったのですが、まだ終わりません。

モースの大森貝塚
2階はモースの大森貝塚が中心です。

モース大好き

もちろん、日本の考古学はここから始まったというすごい業績なんですが
それ以外にも、この人の人柄が好き

そのあたりの事は以前に書いていますのでよろしければ読んでね
大森貝塚のモースさんって面白い人だったのね
日本大好きな人で、日本的なものの大コレクター。
日本を紹介する本、「日本その日その日」はユーモアたっぷりです。

大森貝塚ってどこにあった?って論争があります。
関係者達ですら、記憶が曖昧になり
大森貝塚の場所が特定できなくなっていたからです。

大森貝塚碑が別の場所に二つある


ここでは、結局横長に大森貝塚と書いてある、大森貝塚が正解でした、と結論付けている。

こんな模型も使って詳しく解説

なぜ、大森貝塚というかというと、モースさんが、電車に乗って大森停車場から通ったからです。と解説されています。
面白いこと言うなあ、と思いましたが、これには裏事情があります。

縦長の碑は大田区の端にあります。
横長の碑は品川区
そりゃ、品川区としては、横長の碑の場所だと言うに決まっています。
とても広い大森貝塚記念庭園まで作って気合い入っています。

客観的証拠は品川側に俄然有利なのですが、決定的にまでは至っていません。
品川側が一番痛いのが、庭園のある場所はそもそも「大井」であって「大森」ではない事
大森は大田区です。
だから、大森停車場から降りて徒歩で通ったと解説する必要があるんです。
モースさんは、あとあとその間に区の境界線が引かれるなんて知りませんものねえ。



モースさんは日本中旅していたというのは今回初めて知りました。

モースさん以外にも興味深い展示
品川駅の話です

新橋横浜間で陸蒸気が走る予定だったのですが
線路が間に合わず、一旦、品川横浜間で仮営業となったのですが、その時の資料
仮営業を許可するという通知

仮営業の開始は、明治5(1872)年、5月7日。駅は品川と横浜だけ
本営業は、明治5(1872)年、10月14日
この時刻表はその中間。7月10日に、川崎と神奈川が追加になって4駅になったときの時刻表
品川から横浜の所要時間は40分です。
開業予定の新橋と鶴見には時刻が入っていません。

これを見て大興奮だったんですが、何がかというと、何時何分の時のところ
「時」ではなく「字」となっています。

今のような太陽暦になるのは、明治5(1872)年、12月3日
「明治五年十二月三日を以って、明治六年一月一日とする」
と改暦の詔。
それまでは不定時法なので、この時はまだ不定時法だったと言えます。
日の出が明け六ツ、日の入が暮れ六ツ
1日は12の時(とき)に分かれていて季節により1時(とき)の長さが異なる
それが、明治5(1872)年、12月3日から
1日が24時(じ)に変わる
1時間の長さは年中一緒。

同じ「時」の漢字ながら読み方が「とき」と読むと今の2時間分で、「じ」と読むと今と一緒
こりゃ紛らわしいので、「時」の漢字は使わず「字」の漢字を使った
こういう解説を読んだことがあり、なるほどと理解してきました。

おかしい

まだ仮営業です。不定時法です。世の中には「とき」しかありません。
紛らわしくなんてありません。
そもそも、分って何よ
所要時間は40分って今の40分?それとも80分?

これでは今日は眠れません。
ということで、色々調べると
そもそも、江戸時代も不定時法を使っていたのは、庶民であって、
暦を作る天文方のお偉いさんたちは、定時法で暦を計算していた。
そりゃそうでしょうね。難しすぎます。
さらに庶民でも「刻」(こく)というのも使われている。
丑の刻とか言いますね。
これは元々定時法
ただ、出典によりいろんな書き方がされている
早い話が、テキトー

察するに、私の勝手な解釈ですが
時刻表は改暦前も、そもそも定時法で書かれていた。
もし、「字」が「とき」を意味するなら、午前九字、十字、十一字と増えていく筈ないんです
時は、午前中は六五四と減っていって、午後、また九から始まって減っていく
この「字」は元々24時定時制としか思えない。

庶民たちは、時刻表なるものに、自分達の知らない「字」なる表現があっても
そもそも時計なんて持っていないし、ずっと待っていて来た陸蒸気に乗れば良いので
質問なんてしなかったのでしょう。

その年の末に改暦の詔の電撃発表で庶民は大混乱と言いますが
実はこういう形で予告編は小出しにされていたのかも知れません。

次に驚いたのが切符

汐留の遺跡調査で見つかって、復刻したと書いてありますが
こんな紙のものが土に埋まっていて、良く色まで分かる形で残ってましたね
金属やガラス的な入れ物の中に入っていたんでしょうか

大使館襲撃事件を高杉晋作伊藤博文等、長州の志士たちが集まって打ち合わせした土蔵相模の模型

おっと、こんなところからお兄さんが1階を見下ろしていたのね

本が何冊か置いてありました。
今まで、色んな企画展をやったときの記録が本になっているようです。


いかん。ここへ来て
面白すぎるじゃない。帰れない

値段書いてないけど売っているんだろうか
大急ぎで、表紙を写メって入口の所へ

おっと、横に棚があってさっきのの一部が置いてあって、どれも1000円
ラッキー
さあ、どれ買おう
それから、立ち読みしつつ粘ること10分

見かねて、係りの人が
向こうのベンチで読んでいただいて結構ですよ

大丈夫です。決めました。これ下さい。

明日は、この本の中で興味深かった内容をいくつか紹介しますね。

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

品川歴史館は涙もの

台風だ!

ということで、今週末のお出かけは屋内ものと致しましょう。
品川歴史館へ前から行きたかったのよね

三又地蔵
最寄駅は大井町
結構歩きます。

台風の中、歩くんかい

三ツ又地蔵

夏目雅子主演の時代屋の女房でも出てきました。

伊藤博文別邸跡

明治天皇から、元赤坂仮皇居会食所の建物とその移築費あげるわ

良ろしいんですか?有り難き幸せ

ここに5000坪もの広大な土地を購入して、恩賜館と名付けました。
天皇から賜ったので、恩賜です。
今はこの建物、さらに移築されて明治記念館になっています。

光福寺
銀杏がすごかった。
銀杏と言えば、今まで色々すごい銀杏は見てきたけれど
やっぱり善福寺の銀杏が一番

なんとその善福寺の銀杏を持ってきた兄弟という事らしいです。

推定樹齢800年
すごい乳垂れ

善福寺の銀杏もそうだったんですよね。

品川歴史館

やってまいりました。品川歴史館
東京23区はそれぞれ郷土資料館的なものがあり
なかなか気合いの入っているものが多い

前から、品川歴史館の存在は知っていて、ぜひ来たかったんだけど
ちょっと離れているから、雨の日用に取っておいたのね。

実はひとつ失敗をしておりまして
遠いところ用の眼鏡を持って来忘れた
いやあ、字が分からん分からん。
年は取るもんじゃないですね

企画展から
臨海部の発展
品川と言えば東京湾
東京湾と言えば埋め立てです。


素晴らしいですね人間の英知

さあ、常設展
品川と言えば、品川宿
このジオラマが見たかった


この酒屋さんでは、酔っぱらいがひっくり返っています。

貫目改所で、実際に荷物の重さを計っているの始めてみた。

本陣こんなにでかかったのか

紅絵売り
一色刷りの絵に自分で赤い色をつけて売り歩いた。
吉原の人気店、三浦屋の模型を背負って、売り歩いています。
この人売れたろうなあ

時代が幕末になります
一番涙ものだったのが、お台場の構造

台場って何かと言うと、ペリー来航で、外国と戦争が避けられなくなり
海の中に大砲を撃てる島を作った。

完璧な、石垣で囲まれていますが
地盤を強固にするために、杭打ちをしていたんですね
これが杭

海の中に作るわけなので、海の底に杭なんて打てる筈が内ですが
一旦周りに堤防を作って海の水をかい出し
そのあとで作業

今はお台場に台場公園として第三台場とその向こうに第六台場が残っているだけです

第一台場と第五台場は埋め立てられちゃったと聞いていたんだけど
その時発掘調査していたんですね。知りませんでした。

その時の断面がこれ

このようなものが見れようとは。
ああ、生きてて良かった。

御殿山の事
外国公使館の事
東海寺の事
戸越公園のところの熊本藩下屋敷
興味深い事ばかりですが、キリがないのでちょっと飛ばします。

仙台藩品川下屋敷から発掘された、西洋犬の骨格

鎖国の筈なのに、仙台藩は、西洋犬を長崎経由で輸入していたことになります。

庭園がありました。
庭に出れます。
雨なんですけどね
出れるんだったら出てみたい。
傘は入口横の傘置き場に置いて来ちゃったから、濡れながらです。
雨の日の庭園って、石に趣が出るので良いんですよね





奥に水琴窟があったようです。
水琴窟大好きなので普通なら絶対行くのですが
さすがに雨に濡れつつ水琴窟の風情を楽しもうとまではなりませんでした。
そもそも、ピチャピチャです。

二階
次は二階です。
二階は、モースの大森貝塚の解説

モースさん大好きなので、こちらもワクワク

続きは、明日と致しましょう。

[おでかけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

[植物]一番茶と二番茶はなぜ味が違うの?

植物のかしこい生き方、第4章「逆境をしたたかにいきる」から

自分をつらぬくことは大事
でも臨機応変に自分を変える
かしこさも大事

お茶

5月上旬に市場に出回る新茶は、立春から数えて八十八夜に摘まれるお茶

♪夏も近づく八十八夜 チャンチャン

一番茶、走り茶とも言われます。

一年間の無病息災を祈って有り難く飲まれます。

その後で、摘まれるお茶が二番茶、三番茶とも言われます。

新茶は甘味や旨味があるのに対して、二番茶、三番茶は渋みや苦味があります。
それぞに良さなので、必ずしも一番茶の方が良いと言うものではありません。

新茶
何で新茶には甘味や旨味があるのでしょう。

答えは、
お茶の木が、冬の寒さに耐えたそのあとに出てきた葉っぱだからです。

お茶の木は、冬の寒さに耐えるため、
葉っぱに糖分やビタミン、アミノ酸を増やします。
そうすると、葉っぱが凍りにくくなるからです。

お茶に限ったことではなく、あらゆる葉っぱは凍ってしまうと機能を果たせなくなります。

なぜ糖分やビタミンアミノ酸をがあれば、凍りにくくなるかは
普通の水と砂糖水を凍らせる実験をするとすぐ分かります。

凍る温度を凝固点と言いますが
普通の水の凝固点は0度
糖分やビタミンアミノ酸を混ぜれば混ぜるほど、凝固点は下がっていきます。

冬を越えた野菜
ダイコン、白菜、キャベツ等に甘味があるのはそういう訳があります。

お茶について言うと、お茶の旨味の成分と言われるテアニンが新茶には多く含まれます。

二番茶三番茶
二番茶三番茶は5月以降に摘まれます。
もうその頃になると、寒さ対策は必要ありません。

注意すべきは、強い日射し対策です。
紫外線に負けるもんか!

抗酸化物質である、タンニンやカテキンを数多く作ります。

タンニンやカテキンは渋みがあるので、虫に食べられる事を防いでくれます。

時期によって
自分の生き方も変えていると言えます。

[植物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[平将門]3 合戦が始まる

[平将門]1 父の死。頼んだぞ。
[平将門]2。桔梗どのにございましょう
の続きです。

国香(将門のお父さん良持の兄弟の長男)の長男、貞盛が京都から里帰り
源護(みなもとのまもる)の息子、長男の扶(たすく)と次男の隆(たかし)の二人に会った

話は平将門の事に
桔梗を奪われ、憎き敵

ある計画がなされる

法要
国香から使いがやって来た

5/4 お父上、良持(良将とも言う)殿の法要を催したい。
ご出席いただきたく。

桔梗が将門に尋ねた

どうしてもいらっしゃらないといけませんの?

罠としか思えない。
行って欲しくない。

考えすぎじゃ、桔梗

戦に行くわけではないので、十数人で向かう。

ところが、その途中、常陸の国の野爪という場所で、矢が飛んできた。

な、何じゃ、何事じゃ

兄者、謀られたのです。

弟二人が、こういうこともあろうかと兵を引き連れ、隠れて付いてきていた。

野爪の合戦
平将門が関東一円全てを制する合戦がここにスタートする

弟二人の兵が合流したとはいえ、いかんせん準備不足
どんどん劣勢になり、追い込まれていく。

そんな中で、黙然人となろうと努めてきた将門の人格が豹変する
怒りに満ちた、阿修羅と化す

何とか食い止めながら数日が経つうちに変化が現れた。
地侍たちが立ち上がった

場所は敵地、常陸(ひたち)の国
国香や、源護の地元
おらが大将の元へ馳せ参じるはずが逆だった。

将門殿に味方せよ

日頃よほどの鬱憤がたまっていたのだろう

どんどん膨れ上がる、怒りに満ちた軍団

その前には、優勢だったはずの、源扶と隆もなすすべが無かった
おもうがままに勝利をおさめた。

ただ、その勝ち方が良くなかった。
元々、将門から仕掛けた戦ではない。
勝ちが確定したら地元に引き上げれば良かったのだが
源扶と隆を討ち取ったあとも、その場に残り、どんどん焼き尽くしていく
理屈ではなく、怒りに支配されてしまっている。

バックで糸を引いていた国香もさすがに見ておられなくなって
兵を上げ、戦地に向かうが、どうしようも無かった
討ち取られた訳ではないが、その時に受けた傷が悪化し
痛みに耐えかねて自害した。

ようやく冷静になった
「古記」によると、焦土となるもの五百戸、
人畜の死傷もおびただしく、広野の空の燻ること七日七夜

この時活躍した地侍たちは、元の地には戻らず
将門について行き、豊田の館へ。
わがお館様、と尊称した

勝ち馬に乗るというのでしょうか
こうなると、我も我もと、将門の元へと集まってくる。

土地が動いた。

日本史に良く出てくる荘園
正式には国の所有である土地も
新たに開発した農園は、開発者が勝手に自分の物と宣言
でもばれると没収されるから
これまた勝手に人に差し上げる。
誰にかというと、強い人
その代わり、その人から借りた形にして、以前として耕作収穫は自分で行う
賃料を支払う。

常陸の国は、源護と、平国香が協力しあいながら治めていたのだけど
あくまでも正式なものでなく、こういった実効支配。

その強さが崩れた。

農民たちは強い人に守ってもらわないと自分達が困る
元々没収されるはずの土地ですから。

ということなので土地が動いた、ってこと
実効支配のぼやっとした境界線が変わっていく。

将門の父、良持の土地だったのに、国香に強奪された土地が
ほぼ戻ってきた。

ただ、この時点では、振り出しに戻ったに過ぎない
ここから、新たな展開へと進んでいきます。

息子たちを殺された源護、父親国香を殺された平貞盛
そして、国香の兄弟、良兼、良正はまだ残っています。

続きは、シリーズの次回

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)