深大寺城跡に行ってきました。

昨日の土曜日の話です。

カミさんが、仕事で青梅に行くとの事で
武蔵小金井まで車で送ってね

はーい

武蔵小金井はいつもの最寄駅清瀬が西武池袋線であるのに対して、JRの中央線。
青梅に行くには、そっちの方が便利

でも、せっかく車で武蔵小金井まで行ったのなら、そこから車で行けるところにお出掛けしたいな

カミさんを送って
いってらっしゃーい

急に言われたもので予め調べる余裕がなかった。
方向的には府中の方だな
とりあえず、GoogleMapに「行ってみたい」マークを付けているところ
結局、多摩市まで来ちゃった

古市場

北条氏とあるので、江戸時代よりちょっと前
ここに、市が開かれていた

末尾3の日と9日
3,9,13,19,23,29日なので、一ヶ月に6日市が立っていた

ちょっと歩いてみて分かったんだけど
今日はウォーキングには不向き

異常に暑い、って事と
足の裏で傷めたところがちょっとばかり痛い

さすがに、この古市場の棒だけ見て帰るのも寂しすぎるし
もう一ヶ所だけ行くとしよう

えーっとえーっと、
よしここだ
調布市なのでここからちょっと遠いけど
車だから何とかなるっしょ

深大寺(じんだいじ)城跡
以前カミさんと深大寺に行ったことがある
カミさんとウォーキング。深大寺。

そのすぐ横に城跡があったのをその時は知らなかった。

城跡と言っても、さっきの北条氏の頃の事だから
天守閣とかがあるわけではなく
敵に攻められにくいよう
建物の周りに、空堀を掘ったり、土塁を作っていたりするもの

やってまいりました

なるほど、一部が近くの神代植物園の飛び地で、水性植物園になっているようです。
神代植物園は有料だけど、ここは無料なのでお徳


花菖蒲の時期は終わっちゃったからな
おそらくその時期には綺麗なんでしょう。


ネットから、ちょっと花菖蒲の時期の画像を拝借

城跡

ここは誰の城かというと、扇谷上杉氏
おうぎがやつうえすぎし、と読みます。
伊豆からどんどん勢力拡大してきた北条氏に攻められないよう
本拠地の河越城の手前に急遽城を作った。
最初から作るのは、大変なので
元々もっと前の時代に城として使われていたところを
一部活用しながら作ったと思われます。

関東の他の城と比べても結構な規模の城
負けるもんかっ

対する北条氏は、この深大寺城のちょっと手前に小沢城を作ります

さあ、決戦の結果やいかに

なんですが
何と、北条氏
この深大寺城には向かわず
迂回して、直接河越城に向かい
攻め落としてしまいます。

ちょっとちょっと
せっかく作ったのにそれはないでしょ
攻めてよーっ

その後、関東一帯は北条氏が支配するので
この深大寺城も北条氏のものになります。

ところが
北条氏は、深大寺城を城として使いませんでした。
かと言って、潰してしまったかというとそれもなく放りっぱなし

ちょっとちょっと
せっかく作ったのにそれはないでしょ
使ってよーっ

でも、そのお陰で、
そのままの形で残っています。

来てみて分かりましたが
土塁や空堀が実に良くそのままの形で残っている
いくつか関東の城跡は行きましたが
残り具合で言うと、世田谷城に次ぐぐらいの残り方

練馬城なんて、としまえんになっちゃいましたからね
また、城跡に再現してくれるようですが。

前置きが長くなりましたが
ぐるっと土塁を巡ります。



写真でなかなか伝わらなかったかなあ
かなりの高さまでちゃんと残っているんですよ
しかもかなり広い

こりゃかなりの城だわ
使われなかったのは勿体ないなあ

櫓台となっているところに登ってみました

かなりの高さです。
やぐらが組まれていたんでしょうか

空堀です

これもかなりちゃんと残っている
説明には、本当はもうちょっと深かったとあります

さっきのところが第一城郭
本丸なので、殿様や、その周辺の偉い人達がいるところ

次の第二城郭は、その他大勢
芝生広場になっています

おっとあれはひょっとして
やっぱりそうか、柱の跡を示してくれている


こういうのがあると、ぐっと臨場感が出て
来て良かったなあと思えます

なるほど、これとこれの建物なのね

この建物の中で、兵士たちが色々喋ったんだろうなあ

今度の北条ってのは強いらしいぜ

ほんまか、死にたくねえなあ

俺は手柄立てたいから前行くよ
お前は後ろで隠れてて良いよ

えっ。なんだよ俺だって行くよ
やるときゃやるんだ俺だって

水車館
お隣の深大寺は以前に行ったし
一度入っちゃうととても広く、色々行きたくなっちゃうので今回はパス

ただ、水車館だけは前回行き損ねたので行ってみよう

残念
中に色々展示があるはずだけど、例によって臨時休館
外観だけで楽しみましょう

[おでかけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

[歳時記]7/17 江戸が東京(とうけい)になった日

7/17
慶応4(1868)年、天皇の東幸の詔勅が出された。
「江戸を称して東京とせん」というこの詔勅によって、
江戸は「東京」と改称された。

ただ、「東京」を何と読むかについて書いていなかった

とうけい?
とうきょう?

最初はむしろ、とうけいと読ませる事の方が多かった
漢字としても「東亰」という字が使われる事があった

亰は、京の異字体で、特に意味の違いはなく、どっちでも良い

どちらかというと、とうけい、と呼んだり
東亰と書いたりするのは、
東の京都なんかじゃないぞ、という反発というか
わだかまりというか
抵抗してやろう感がある表現

旧幕臣系の人や、昔から江戸に住んでいる人

ほぼ統一されるのは、実に明治20年頃だった

ちなみに、東京が首都になったのは、明治4年
府県の順序で東京が第一だとなったんだけど
実は、日本には、首都なる概念がなかったので、首都という表現はされていない

驚くべきことに、東京を首都として、表現した法律が、
今現在、ひとつもない。

2018年2月には衆議院議員逢坂誠二が質問
日本の首都はどこですか

面白い質問しますね。

「首都を東京都であると直接規定した法令はないが、
東京都が日本の首都であることは、広く社会一般に受け入れられているものと考えている」

これが、日本国政府としての公式見解ということになっています。

また「遷都」という言葉なんだけど
東京遷都とは言われていない
東京奠都(てんと)

どう違うかというと
遷都は、前の都を廃止して、新しい都に移す
奠都は、新しい都を作るだけで、前の都を廃止するという意味を含まない

東京が奠都だとすると
京都はいまだにまだ都なんですね

大阪都構想が通ったら
都が3つになっちゃうのかしら
華やかな方が良いかな

[季節]シリーズはこちら(少し下げてね)

[宇宙]宇宙ミュージアムTenQでの小ネタ。泣くに泣けない宇宙空間

[宇宙] 宇宙ミュージアムTenQでの小ネタあれこれ
の続きです。

宇宙飛行士同士の結婚
NASAでは、結婚した二人が同じ宇宙ミッションで飛行することを禁じています。
理由は、人命救助を必要とする緊急事態が生じたとき、どうしても順序が生じるためだとか

結婚していなくても、気に入らない奴より、気の合う奴から助けるから、一緒だと思うけどなあ
意外に頭堅いのね

1992年、ミッション訓練中に知り合った二人が結婚していることが
出発直前にバレちゃった

さあ、どうする
NASAの出した結論は

まあ、いっか

よっしゃ、それでこそNASA

コングラチュレーション!

泣くのが大変?
無重力空間で泣いたら、涙はどうなるのか
国際宇宙ステーション(ISS)に滞在した、エンデバーの乗組員が
偶然その実験をしちゃった

涙がこぼれ落ちずに大粒の涙となり
目の前に張り付いて困った。

うーむ、泣くのも一苦労

はんだ付け
最近話題になった「はやぶさ2」
手作業によるはんだ付けが10万箇所以上も
匠たちの熱い思いで成り立っているんですね

[宇宙]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]82 後鳥羽天皇。二人目の天皇

源平シリーズが追いついて来ましたので、天皇シリーズを再開することにいたしましょう

後鳥羽天皇
1183~1198年

出ました、超大物
後鳥羽が天皇の時期よりは、上皇になってからがさらに激動なので
82代から85代の仲恭天皇にいたるまで、後鳥羽上皇がらみをばらけながら見ていきます。
百人一首シリーズの時に4回に渡り、かなり詳しく扱っていますので
そちらも見てくださいね
[百人一首]99 その前に、後鳥羽院について
[百人一首]99 承久の乱
[百人一首]99 承久の乱、その2
人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

神器なき践祚(せんそ)
安徳天皇の在位期間は、1180~1185年
後鳥羽天皇は1183~1198年ですから、一年半は天皇が2人いたことになります。

安徳天皇を平家が連れていっちゃった
しかも、天皇である証、三種の神器も持っていっています

困ったなあ、と後白河法皇
あくまでも安徳天皇と三種の神器を取り返すか
諦めて新しく天皇を立てるか

決めかねるなあ
そういう時は、占いに限る

どうだっ

安徳天皇を待つべし

えっ、そうなの?
参ったなあ

よし、じゃあもう一回

半々

えっ、半々って何よ。どっちかにしてよ
まあ良いか。半々って事は、新天皇っちゅう事

(最初から決めてるやん)

安徳天皇と同じ高倉天皇の子で、安徳天皇と同じ年で4歳の後鳥羽天皇

やっぱり問題なのは三種の神器が無いこと

分かっているね、みんな
それは言わない約束よ

でも、一番気にしたのは本人
コンプレックスをもち続ける

元々能力の高かった彼には
コンプレックスはプラスに働いたかも知れない

政治と文化の両面で図抜けた能力を発揮した。

短歌、音楽(琵琶と笛)、漢詩、蹴鞠なんでもござれ
特に、短歌では、本人の能力もさることながら
短歌という文化の向上に大きく貢献
新古今和歌集を自ら中心になって編纂した。

13歳の時、後白河法皇が66歳で亡くなる
紆余曲折ではあれど、激動の超ワンマン体制が終わりを告げる

さあ、やりたいようにやれるぞ
後鳥羽の親政が始まる

九条兼実を関白とし、
後白河法皇存命中は絶対に許さなかった、頼朝の征夷大将軍を認める

そして、19歳になり、息子の土御門天皇に譲位
土御門天皇は3歳。
良いの良いの、自分もほぼ同じ歳で天皇になったんだから。

1198年、さあ、院政開始だ
1199年が、頼朝が落馬して亡くなった年だから
ここからまた大きく時代が動いていく。

このあとの事は、土御門天皇の時にね

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)