皇居の激しい空襲被害

磯田道史先生の「日本史の内幕」という本を読みました。

磯田先生は、私の大好きなTBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」に毎年一回ずつ出演してくれて
ホカホカの話題を教えてくれる

私がそれに基づいて記事にしたのは以下の通り
ねずみ小僧
歯医者誕生
蛤御門の変
皇后陛下の東京行幸

この本はちょっと面白い書き方になっている
磯田先生の良いところは
日本史に関わる出回っている資料を読み込んで分析するみたいなことはとっくに卒業していて
まだ出回っていない古文書を収集する努力をいっぱいしていること
ほとんどが古本屋さんから収集

もちろん、分かった中身も書いてあるけど、
入手の苦労話等も書いてあって、その過程も読み物として楽しめる

皇居の空襲被害
その資料は南青山の古本屋から連絡があり入手
店の主人とのやり取りも心温まるものだった

宮内庁主馬寮(しゅめりょう)職員の、昭和20年、即ち終戦の年の日誌
主馬とは、その名の通り、馬に関わる仕事で、
日誌の主は、今の上皇様と常陸宮殿下の乗馬の教習係

1/4
B29が数発の爆弾を豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に投弾
斎館二棟、神楽殿五棟崩壊す
一億怒り心頭に発す

2月に入ると、爆弾対策会議が始まります。

2/9
昭和天皇が、判任官待遇以上の防空組織員に襟衣の上下を下賜して士気を鼓舞

2/19
主馬寮の庭に敵機の破片約一米、長方形、落下

当然、一番優先順位の高い標的は皇居です。
実際の被害はこのあと始まります。

2/25
主馬寮分団・廐舎区に焼夷弾約150発落下
火災を発生せる箇所、御裁縫所・済寧館・・・

そして、東京大空襲の日になります。
3/10
庁舎に対しては集団的焼夷弾の落下あり
主馬寮は全焼します。

4/13
皇室の御料乳牛場の資料庫等が焼ける
雅楽奏者の職員等が焼死
霊柩車が二つ宮内省に並ぶ

4/29
昭和天皇の誕生日につき拝賀行事
たびたびの空襲警報発令で取り止め

5/25の大空襲
大宮御所・各宮邸にも火災
ついに宮城(皇居)表御座所(執務室)外、烏有に帰し
多数の犠牲者(33人)を出すに至る

皇居は4度の空襲で、宮殿をほぼ失いました。

という具合なので、皇太子殿下(現在の上皇様)は日光田母沢御用邸
義宮様(常陸宮殿下)は、日光山内御用邸に疎開した。

ここで、えっ、と思いました。
先日家の近くの小金井公園内、江戸東京たてもの園に行ったとき
皇太子殿下が学習院の集団疎開でここ小金井に来られたと
記念碑もあって、ガイドさんから聞いたばかり

ググってみました

読売新聞の2018/12/17の記事に
「天皇陛下の疎開の日々、学習院初等科教授が記録」というものが見つかった

やはり日光に疎開されていたようです。
そして最後にこんな記述
「陛下のお住まいは、45年5月の空襲で東京・赤坂の東宮仮御所が全焼、
戦後に移られた小金井の御仮寓所も49年12月に火事になり、当時の身の回りの品々は焼失したとされる。」

小金井に来られたのは、戦後だったんですね

日誌の著者は、日光に乗馬を教えに行っていたようです。
殿下は、よほど乗馬が好きで、かなり長く練習されていたようです。

8/15
この著者は、東京で玉音放送を聞いて泣いた。

それでも、義宮様に乗馬を教えに行かないといけない

夕方4時に上野駅から日光に向かう
でも、敗戦のショックで鉄道はまともに動いていなかった
国鉄従業員為すところを知らず、列車の運転、為に大遅延
夜12時にようやく日光に着く

これで、この日誌は終わっている

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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