神代植物公園に行ってきました

住友生命Vitalityという、歩けば保険料が安くなる仕組みに加入してから
カミさんは歩くことに積極的

お蕎麦屋さんに行こうよ

もう何回目か
深大寺のお蕎麦屋さんが気に入ったようです

お蕎麦屋さん
いつもは一番人が並んでいる「湧水」というところに行くのですが
今日は別のところに行ってみるかと、二番目に並んでいる「一休庵」
十割そばもあります

なんと、そば以外ありません
天ぷらそばだの、きつねそばだの、山菜そばだの一切なし
お蕎麦オンリーで、おつゆが複数と
10割、9割、8割のバリエーションのみ

私は10割のとろろ

カミさんは10割のくるみだれ

美味しかったでーす

神代植物公園
深大寺にちょこっと寄ったあと、神代植物公園に行きましょう
歩数を稼ぐのが目的です
この時点で私は、6000歩くらい
朝から、掃除だの庭いじりの時、スマートウォッチを着けていたから。
カミさんは、スマホを置いたままだったのでまだ数100歩
最低でも8000歩での20ポイント、目標は10000歩の40ポイント
あわよくば12000歩の60ポイントです

春バラのイベント開催中です

バラはやっぱり美しい






温室に行ってみましょう


乗れそう

この花、蝶々みたい


睡蓮も綺麗

サボテン


ツツジ・サツキ展もやっていました




とても綺麗だったけど、カミさんは気に入らない様子
へき地の山の中で育ったので、花を無理矢理形作るのは可哀想だとのこと
切り花を活けるのは好きなので、矛盾しているような気がしないでもありませんが。

公園を歩きます

林の中へ

カミさん上期限
山にウサギを連れていくじゃない。するとこの草が大好きなのよ

山にウサギを連れていった事がないので、良く分かりません

私は9000歩を越えました

近くのコーヒー屋さんに行きましょう
しばし、まったり

私は、そばパンの高菜、カミさんはそばパンのあんこを買って、駐車場に戻りました
私は、11000歩
カミさんも8000歩を越えました

振るコツが分かったのよ
こうやるとね、腕が痛くならないの

そりゃ良かったね

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]41-2 三木武夫。クリーン三木

[首相]41 三木武夫。議会の子
の続きです

三木答申
三木総理誕生からさかのぼること
12年前の1962(昭和37)年
池田勇人総裁から自民党の組織調査会長に任じられ、
三木は党の近代化問題に取り組んでいた

カネの問題といい、派閥の問題といい、いま何かしなかったら
民主政治は崩壊する。三木君、何とか考えてもらえないか

総裁が相当の決意を持っていただく必要があります

その決意はある。
最後には君と私ふたりだけになったとしてもやろうじゃないか

三木は「三木答申」といわれる試案を提出
でも、残念ながら池田が病気で退陣したため、
三木の答申は結局、実らずに終わった。

この時から、三木の生涯続くテーマが「政治浄化」になる

椎名裁定
田中角栄総理が金脈問題で失脚
時期総裁候補として、福田赳夫と大平正芳
勢力伯仲で大バトル
このまま行くと党が真っ二つに割れる

当人達も危機感を持ち、次期総裁の決定を椎名副総裁に決めてもらう事で納得
椎名副総裁は、金脈問題での党の信頼回復のため
「クリーン三木」を担ぐ

意外にも、両陣営とも小派閥の三木なら単なる時間稼ぎ、と承諾

三木は「嵐のなかに船出する小船のような気持ち」と述べながら、
じつは「総裁でなければできないこと」、
すなわち徹底した政界浄化をやろうと意欲を燃やしていた。

三木試案
総理となった三木は、ただちに先の「三木答申」をもとにした
「三木試案」を椎名悦三郎副総裁に提示し、
その実現に向けて全力をあげるように求めた。
この試案のうち、国会で争点となったのが、
政治資金規正法と公職選挙法(いわゆる選挙2法)の改正である。

政治資金規正法改正案は、政治献金を量と質の双方から規制して、
オープンなものにしようという内容であった。
「3年後に企業献金を廃止し、個人献金1本に絞る」という案件が含まれていた
【三木試案のポイント】

①総裁選挙改革⇒予備選挙制を採り入れて投票者の幅を広げる。
②政治資金の規制強化⇒公開を原則とし、一定の限度を設ける。
③選挙腐敗の防止⇒金のかからない、かけられない選挙を目指し、国の費用負担を拡大。
規制を強化(連座制強化、違反の厳重取り締まり)。

企業献金廃止に対して、
党内からは「政治資金を規制すれば自民党が困るだけじゃないか。
三木さんだって自民党員だ。何を考えているんだ」という
反発の声がいっせいにあがる。

党内の意見はまとまらない。
「三木にとって最大の野党は自民党」と評されるほどの
総スカン状況となり、三木は企業献金「全廃」を断念せざるをえなくなる。

規正法案の内容をゆるめることで党内はまとまったものの、
今度はマスコミや野党から「政治姿勢の後退だ」
と叩かれることになる

国会通過
選挙改革は公職選挙法改正案等の選挙2法
政治資金浄化は政治資金規正法

「金がかからない選挙を目指そう」という選挙2法改革案は、
社会、民社両党が積極的推進にまわり、
組織力を駆使した資金と人海戦術で選挙を戦う公明党と共産党は不利になることから、
共闘して反対した。

選挙2法は与党が安定多数を占めている衆議院は通過したが、
問題は与野党伯仲の参議院である。
公職選挙法は社会、民社両党が賛成しているので問題はないものの、
政治資金規正法は野党すべてが反対のため、
もし自民党内の結束が乱れれば成立が危うい。

6月30日、公明、共産両党の議員や秘書団は、選挙2法を阻止すべく、
法案を審議する第1委員会室の前で座りこみを行なった。
委員会審議は不可能となり、選挙2法は参院本会議で直接審議されることとなる。

2日連続で徹夜のロングラン国会となる。
ようやく選挙2法の採決に入ったのは、国会最終日4日の午後5時40分過ぎだった。

まず、公職選挙法を予定通り可決。
そしていよいよ政治資金規正法の投票である。
与野党ともギリギリまで票読みをしたが、どうなるかわからなかった。

投票が終わり、議場が緊張に包まれるなか、河野議長が投票結果を読みあげる。

「投票総数234票、白色票(賛成)117票、青色票(反対)117票、可否同数です。憲法第66条第2項により、議長が決します。議長は可と決します」

「ウオッ!」という声が議場からあがる。

三木はゆっくりと立ち上がり、「あぶなかったなあ」といいながら、
顔をしわくちゃにして、そこにいた誰かれとなく握手をする。
眼鏡の奥の目からは大粒の涙が溢れていた。

自民党総裁選の改革案
こうして政治資金規正法と公職選挙法はかろうじて改正を果たせたが、
三木が「諸悪の根源」と言い放った自民党総裁選の改革案には、
分厚い壁が立ちはだかった。

総裁選改革案は、総裁選の有権者が国会議員と少数の地方議員に限られている現状に、
全党員による予備選挙を導入しようというものだった。
だが、各派閥の思惑がからんで難航。

三木を批判する田中・大平派の若手議員らが改革案を逆手にとり、
「総理は新しい規定に従って、総裁選の洗礼を受けるべきだ」という署名を集めるなど、
三木体制へのゆさぶりを開始した。

三木は改革案を強行することによって党内の混乱を招くことを危惧し、
翌1976年(昭和52)1月の党大会で改正をついに断念。
いったん棚上げすることで収拾した。

ロッキード事件
総裁選改革の断念から1か月後の2月初め、ロッキード事件が明るみに出る。
三木は「日本の政治の名誉にかけても問題を明らかにする」と徹底究明を表明。

さあ、どうなるか
続きはシリーズの次回

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[岩宿]3 少年の孤独

[岩宿] 相沢忠洋というひと
[岩宿] 一家団らん
の続きです
考古学の歴史を抜本的に塗り替える大発見をした、相沢忠洋さんの自伝「岩宿の発見」から

転々と
両親が離婚
兄弟たちはそれぞれバラバラになり
忠洋少年は寺に預けられた

当初はお父さんが時々訪ねてきたが、だんだん来なくなってしまった
孤独な日々
何があっても嬉しく思うことがなくなり
ただただ家族で暮らした、一家団らんの日々が恋しくてたまらなかった
世の中の状況も戦争への空気が色濃くなっていく

1年が過ぎた頃、今度は、北鎌倉の叔母さんの家に移った
お父さんが叔母さんの家で住込みで手伝うようになったから。
叔母さんの家での生活はどうもうまくいかなかった

夏になると、お父さんが急に群馬県の桐生(きりゅう)に行くことになった
一緒に桐生へ

桐生の山の上で遊んでいると、ふと足元に土器の破片があることに気づいた
鎌倉で一家団らんの頃、土器を拾ったことが思い出される
ああ、ここでも遠い時代に祖先の一家団らんの場所があったのか、と
土器と一家団らんのイメージがさらに強く結び付くことになる

桐生での生活にやっと慣れた頃、お父さんに
「カツラ屋とはきもの屋と、どっちがいい」と聞かれる

少し考えて「はきもの屋がいい」と答える
お父さんは笛吹きの芸人
それが故に一家がバラバラになってしまったと考えていたので
芸人に関係の深いカツラ屋は嫌だった

奉公
浅草のはきもの屋で奉公することになる

学校へ行けるということだったが、それどころではなかった
働きづめの毎日は慣れてくるが
何から何まで差別されたのがどうにも辛かった

3月になり、ようやく夜学に行けることになる
朝晩で体はきつかったが、それでも学校は憩いの場だった

三社さまの夏祭り
初めて小遣いをもらって、遊びに出させてもらった
「つまらないものを買わずに貯金するんだよ」

露店でふとみると、石の斧とやじりが並んでいるのが目に入った
これいくら
50銭と30銭
懐には10銭しかない
何度も何度も手に取る

10銭しか持ってねえのか
じゃあ仕方ないなあ

ただひたすらに眺める
おじさんも、その様子をずっと見ている

その石斧、持ってきな

つまらないものを買っちゃダメって言ったじゃないか
と怒られたので、荷物の奥に隠す

翌日、学校に持っていくと、先生は誉めてくれて
土器が陳列してあるという上野の博物館のことも教えてくれた

行っては見たが、とても立派な建物だったので
自分のようなものには場違いじゃないかと
初回は中に入れなかった

年内最後の休日
意を決して上野に行った

本当なのか

自分が持っている石斧や土器の破片とほぼ同じようなものが
立派なガラスケースの中に並べられている

一巡りして、また戻って

「もう閉館ですよ」

声のをかけてくれた若い守衛さん
そんなに遺物が好きなら、一度遊びにいらっしゃい、と
手帳に、名前と道順を書いて渡してくれた

宝物の紙切れ
次の休みが待ち遠しかった

数野さんは暖かく迎えてくれて
石器や土器や昔の人の暮らしを色々教えてくれた

自分の家と思っていつでも遊びにいらっしゃい

遊びに行ける家ができた
その事がとてつもなく嬉しかった
借用した本をむさぼり読む
古代人への憧れが益々強くなっていった

実際に遺跡の出た場所に行ってみたい
数野さんからいただいた資料から
板橋区志村の小豆沢(あずさわ)から、土器が発見されたと知る

板橋ならなんとか行けないこともない
ずいぶんたったが、ようやく9月末になり出かける機会を得た

この辺の筈なんだけど・・
誰に聞いても知らないと言う
あきらめて帰ろう
喉がひどく渇いたので、水をもらえないかと一軒家に声をかけた

へえ、遺跡かい。おかしなものが好きなんだね
奥からおかみさんらしい人が出てきてくれた

そういうと、うちの裏の畑を掘ると
貝殻がたくさん出てきて、その中から焼き物のかけらも出てくるわよ

えっ。ど、どのような焼き物ですか

いくつか取ってあるなあ
あったあった

一目で縄文土器の破片だと分かった
何度も何度もなでまわし、ながめつづけた

欲しけりゃあげるよ。掘ればまた出てくるから
何度も礼を言い、土器が出た場所にも連れていってもらった

感無量だった
古代人の一家団らんの場所

続きはシリーズの次回

[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[関東の戦国]4 北条と上杉のバトル

[関東の戦国]1 戦国時代のベース
[関東の戦国]2 享徳の乱、長享の乱
[関東の戦国]3 北条氏現わる
の続きです。

公方家
北条氏綱のところで、氏綱の娘を足利晴氏に嫁入りさせたと言いましたね。
その間に男の子、義氏が産まれました。

義氏は下総葛西城に住みます。
出ました。以前亀有からウォーキングした、葛飾区の葛西城です。
北条氏康は、甥の梅千代王丸を正式な公方とします。
ここに、北条氏は、公方をも支配下に置くことになります。

鎌倉幕府における将軍と執権北条氏の関係が
ここへ来て、関東にて再現される形となります。

甲相駿三国同盟
1552年、北条氏康、武田信玄、今川義元の3人はお互いの敵に対処するため
甲相駿三国同盟を築く
お互いの婚姻関係によるかなり強力な同盟。

仮想敵国の一番は、上杉謙信です。

武田と上杉の川中島の戦いは、第一次が1553年になります。

北条氏政
1559年、北条氏康は隠居し、家督を息子の氏政に譲ります。
氏康45歳、氏政22歳。

1560年時点での勢力図は以下の通り

まだ、当主としては新米
この気を逃すまいと動いたのは上杉謙信
関東への猛攻が始まります。

その前年に上洛し、
上杉謙信が関東管領山内上杉家の家督を継いだこと
関東へ侵攻してよいとのお墨付きをもらってきています。

たちまち上野(こうずけ=群馬県)、下野(しもつけ=栃木県)の有力国衆たちを
服従させていきます。
上野下野に限らず、北条氏支配に不満を持つものたちが
どんどん上杉謙信側に寝返っていきます。
とうとうこれほどまで

同じ年に、桶狭間の戦いがあり
今川義元は、織田信長に敗れて討死しています。

北条氏は敗走一方
北条氏の本拠地の小田原城にまで迫ります。
北条氏は籠城作戦。
その間に、三国同盟の武田信玄や今川にも援軍を求めました。
武田は信玄自らが駆けつけてくれたし
今川も義元が殺されて大変なことになっているにも関わらず、援軍を送ってくれました。

そうなると、さすがの上杉謙信もたじたじ
一旦退去となります。
帰り際に、鶴岡八幡宮に参詣し、
我こそは関東管領なりと高らかに宣言
公方には、新たな古河公方として、義氏の庶兄藤氏を擁立して、
公方家の本拠の古河城に入れた

関東に二つの体制
さしずめ南北朝時代のようです。

大ピンチ。
氏康も悠々自適に隠居を決めこんでいる場合ではありません。
自分も積極的にしゃしゃり出てくるようになりました。

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