[ことば日本史] おすみつき

「ことば日本史」江戸時代から

おすみつき
将軍や大名が臣下にくだす文書、
とくに領地や勲功を確認する文書が、「御墨付」と呼ばれました。
そうした文書には、墨で花押(書き判)が記されていたことによります。
それが転じて、権威による保証を「御墨付」というようになりました。

同じ意味合いの言葉に「太鼓判を押す」というのがあります
こちらはこの「ことば日本史」シリーズでも書きました
武田信玄の甲州金(一分金)に由来します
こちらも読んでね
[ことば日本史] 太鼓判

折り紙つき
さらに、似た意味合いのものとして、「折り紙つき」というのもあります
平安時代にはすでに、朝廷などで正式の書類を作成する際には奉書という和紙が使われていました。
初めは、全紙サイズの和紙を使っていましたが、
そのうちいろいろな事情から、その全紙を横半分に折ったものを使うようになりました。
この全紙を横半分に折ったものを 「折り紙」 と言いました。

江戸時代になって、刀剣鑑定の権威だった本阿弥 (ほんあみ) 家が、
名刀の鑑定書にこの 「折り紙」 を用いたことから、
その道の権威者に品質を保証されたものを 「折り紙付き」 と言うようになりました。

これが、刀剣類だけでなく、その他の美術 ・ 陶芸品の分野でも
そしてさらに芸事の分野にまで広がっていきました。

お墨付きは、お上的な権威で
折り紙つきは、品質が優れたものについて、その分野において保証されている、
というニュアンスかと思います

[言葉]シリーズはこちら(少し下げてね)

[名字]1 氏姓制度と賜姓

名字の歴史学、という本を読みました

以前、名字に関しては何回かに渡って書いたことがあります。
氏、姓、名字、苗字、実は全く別のもの
名字がいよいよ出てくるよ
氏と姓と名字と苗字がどう違うか、というような話です
へええ、という内容がいっぱいあったのですが
いまいちモヤモヤとした感じも残っておりました

正直、明確にキッチリ分かれている訳ではなく
時代とともに、それぞれの概念がダブりつつ
あいまいになっていくので
最終的にもモヤモヤするのですが
なぜあいまいになっていったのか、というあたりは
今回読んだ本でだいぶクリアになりました

ということで、またシリーズとして、名字に関して書いていきたいと思います

この本では
そもそも、江戸時代までは、武士ではない庶民は苗字を持っていなかったというのは間違い
持ってはいたけれども、公には名乗っていなかっただけ、という衝撃のはしがきから始まります

その辺は時代的に後になりますので
まずはずっと昔
氏(うじ)から始めましょう

氏(うじ)
大和朝廷は、氏族集団の集まりだった
氏族集団は氏(うじ)と呼ばれた
氏族の長は氏上(うじのかみ)と呼ばれ、同じ血縁の氏人(うじびと)たちを統率管理した
その下には非血縁の奴婢(ぬひ)たちが従属させられていて、
部曲(かきべ)とか部民(べみん)とか呼ばれていた

氏族の数は645年の大化改新の前で100を超え、
815年の「新撰姓氏録」では1182の氏名(うじめい)が記録されている
氏名はうじめいと読み、氏名ではなく、氏の名前。実名は含まない

大和朝廷に属する人は奴婢も含めて、いずれかの氏集団に属して氏名を名乗るから
全ての個人は氏名を持っていた

姓(かばね)
中央氏族の氏上(うじのかみ)は朝廷に出仕するとき席順とかが決まっている
その序列を表したのが姓(かばね)
姓名は、真人(まひと)・大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)・臣(おみ)・連(むらじ)・宿禰(すくね)・君(きみ)・造(みやつこ)・公(きみ)・直(あたい)・首(おびと)・史(ふひと)・忌寸(いみき)・県主(あがたぬし)・村主(すぐり)など
二十種類ほどあった。

姓(かばね)は天皇が与えるもので、与えることを賜姓(しせい)という
従って、天皇とその一族には姓はない

賜姓が時代とともに、だんだん変わっていく
姓だけを与えるのから、氏と姓をセットで与えるように変わっていく

皇系の氏族が皇籍を離脱すると賜姓され、臣籍降下(しんせきこうか)という
今まで姓を持っていなかったので、氏をおこすとともに姓も決める必要がある
臣籍降下の場合は、一番序列が上の「真人(まひと)」が圧倒的に多い

第10代、崇神天皇の頃になると、臣籍降下に限らず
様々な賜姓が行われ、ほぼ氏名+姓名のセットで与えられる
皇族系持続に対しての姓が真人という原則も崩れていく

この頃の賜姓はご褒美だった
手柄を立てた氏人(うじびと)に対して、
新たに氏を起こして氏上(うじのかみ)になることを許すということ
皇族の臣籍降下にしても、皇族であるメリットよりも、
一国一城の主的な氏上になりたいということがある

そういう意味合いが強くなると「賜姓(しせい)」という言葉にも関わらず
姓だけではなく氏とのセットが主流になり
ついには、姓の方はそのままに、氏だけ与えるということすら行われるようになる

大化改新の功労者、中臣鎌足が重病になった
天智天皇はすぐに使いをよこし、藤原氏という氏名を与えた
その翌日、藤原鎌足は息を引き取る
これが、その後絶大なる繁栄を誇る、藤原という氏名の始まりである
子の不比等(ふひと)は、藤原大臣不比等を名乗る
藤原は鎌足の住んでいた地名である

ただ、氏姓制度、いくつかの重大な欠陥を抱えていた

改革が始まるのだが、そのあたりはシリーズの次回

[氏名]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇] 108-2 後水尾天皇

[天皇]108 後水尾天皇。和子の入内
の続きです

後水尾天皇

寛永3(1626)年には、9月6日から五日間、
後水尾が二条城(家康の上洛時の居城として造営)に行幸した。
徳川家と天皇の密接な関係が世間に示された大行事だった。

紫衣事件(しえじけん)
しかし翌年7月、
幕府が、朝廷が臨済宗や浄土宗の高僧に与えてきた紫衣を、
違法として剥奪する、という事件が起こった。

法的根拠は、慶長18年(1613)6月16日に家康が定めた
「勅許紫衣之法度(ちょっきょしえのはっと)」である。
紫衣とは、紫色の袈裟と法衣のことで、
もっとも尊貴な服の色とされ、古代以来、法親王(天皇の皇子)や高僧が勅許により着用を許されてきた
すなわち、紫衣を与えるのは、朝廷の権限であり、収入源だった

「紫衣を与える時は、幕府に告知すべし」というもの
後水尾天皇は、無視して、許可なく大徳寺や妙心寺の僧に紫衣を与えた

怒った秀忠は、紫衣を取り消すとした

ちょっと待て
紫衣を与えるのは朝廷の権限
幕府が取り消すって意味わからん
と、猛反発した仏教界

大徳寺の沢庵宗彭・玉室宗珀、妙心寺の東源彗等・単伝士印
等は、将軍相手に訴訟を起こした
結果、それぞれ島流しになる

天皇の勅許より、幕府の決めた法度の方が優位にあると示したことになる

後水尾天皇は怒り心頭
やっとれん、と女一宮に譲位を表明
女一宮は、後水尾天皇と秀忠の娘和子(まさこ)との間に出来た娘
譲位は幕府に拒否される

さらに、後水尾天皇が頭にきたのが
お福(春日局)が天皇への拝謁を求めてやってきたこと
天皇への拝謁には、原則五位以上の官位が必要
お福(春日局)には、何の官位も持たない
苦肉の策として、遠縁にあたる公家の従三位・参議の三条西実条(さんじょうにし さねえだ)の義理の妹(猶妹)として縁組を行い、
三条西家の女性の資格で特別に参内が許され、「春日局」という名前をもらう

幕府の意向で、例外中の例外の対応を迫られ、屈辱と感じた後水尾天皇は
再度譲位の意思を固める

ここまで、4回も譲位を表明して、拒否され続けているので
最終手段
勝手に譲位しちゃう作戦

極秘裏のうちに準備をすすめ
11/8に「譲位しちゃいました」と宣言
朝廷内部でさえごく一部の人しか知らなかったので、みんなびっくり仰天

後水尾天皇の奥さんで、新天皇のお母さんである、中宮和子(まさこ)から、
そのお父さんの秀忠に伝えられる

えらいことになるぞと、朝廷内ではビクビク

とはいえ、秀忠としても
ここで全面戦争というのもどうしていいか分からない
新天皇は、自分の娘の娘、自分の孫でもある
おそらくだいぶ考えたとは思うが
結局は、「叡慮次第(えいりょしだい)」、ご勝手に
ということになった

後水尾天皇、作戦勝ち

かくして、7歳の少女が、明正天皇として即位する
奈良時代の称徳天皇以来859年ぶりとなる女性天皇であった

後水尾天皇はこの後も、上皇として院政をしき、影響力を持ち続ける

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[縄文]5 道具づくり

[縄文] 縄文人は生きている
[縄文]2 ムラづくり
[縄文]3 森をひらきイエをつくる
[縄文]4 ムラができる
の続きです

東久留米第七小学校の6年生が卒業記念に造った版画集を元に出来上がった「縄文人は生きている」という本からの引用です

13.編む

縄文人がつくった道具というと、私たちはすぐに粘土を焼いた土器や石を打ち欠いてつくった石器を思いうかべるが、
その他にも木や竹などの植物、獣の皮や骨などでさまざまな道具をつくった。

木の皮や竹など腐りやすい材料でつくられた編(あみ)ものは、
非常に残りにくいものである。
そのために、私たちの祖先がいつごろから編ものをつくったかを知ることはむずかしい。
しかし、少なくとも今から約6000年前、
縄文時代前期のはじめには、立派な編ものがつくられていることは、
福井県鳥浜貝塚で確かめられている。

編むということは、ひとつひとつの小さな素材から
立体的なものをつくりだすことであり、
工夫しだいでさまざまな道具をつくりだすことができた。

14.撚(よ)る

編む技術とともに重要なのが、撚る技術である。
撚りをかけるということだけで、植物の繊維などは、より丈夫なひもや縄となった。

道具のほとんどは石の刃物と木の柄という、二つの素材を組み合わせたもので、
それを結びつけるための丈夫なひもと縄は、
イエをつくったり道具をつくるためにはなくてはならないものであった。

15.土器を焼く

縄文土器は1000度未満、おおよそ600から800度の温度で焼かれた素焼きの土の器である。

縄文土器を焼いた場所はまだみつかっていないが、
地面に燃料の薪と土器を積みあげて焼かれたものと考えられている。
地面はよくひどこからだき乾いた平らなところをえらび、
まず火床となる部分の空焚(からだき)をして、
土のなかの水分を完全にぬいておく必要がある。

これは土のなかに水分があると、
土器を焼いているときにそれが水蒸気となって土器につき、
ひび割れをおこす原因となるのをふせぐためと、
あらかじめつくった灰と焼け土で、
火床(ひどこ)の湿度効果を高めるためである。

燃料も注意しなければならない。
せっかく火床の水分をぬいても、
燃料が生のままだったり湿っていたりすれば、
それもひび割れをおこす原因となるからである。

よく乾燥した燃料をつかうのは、そのためである。

さて、いよいよ土器を火床にいれる番だ。
土器は火床のなかに口をうえにして立て、
そのまわりに燃料である薪を積みあげる。
このとき土器のなかにも薪をいれると、
土器はむらなく焼ける。

よく乾いた薪に火をつけると、
炎がいきおいよくあがり、20分から30分もすると
土器は透けるような赤色となり、40分から50分もすると焼きあがる。
焼きあがった土器はすぐにはとりださず、
横に倒して、しばらく火床のうえでころがすときれいに焼きあがる。

「燃えろ!燃えろ!」
火床をかこんで、みんなの胸は期待でドキドキする。