[家重]3 どんな駒でも、前に進むことができる

[家重]1 まいまいつぶろと呼ばれた将軍
[家重]2 家重様の目と耳になってはならぬ
の続きです

将軍
8代将軍、吉宗の長男が家重
弟が宗武

宗武は誰もが認める、抜群に頭が切れる人物

障害持ちで、忠光以外に誰も発する言葉を聞き分けられない家重より
次期将軍は宗武が適格だろうと思っている

吉宗は、老中の酒井忠音(ただおと)を呼んだ
家重に将軍職が務まるか、見極めてもらいたい

忠音は、そのため、家重と忠光に何度か会う
二人の誠実な人柄に触れ、次第に家重に肩入れするようになっていった

吉宗に、二人の事をとても楽しそうに話す

家重のようなものが将軍になれば、後世、将軍争いは一切なくなるだろう

いかなる事があろうとも、長男こそが次期将軍職につく
その象徴的な存在になった

忠音がまた会いに行ったとき
家重と忠光は、静かに庭で会話していた

案じることはございませぬ

家重が妻をめとることになった
相手は、伏見宮家の姫、比宮増子(なみのみやますこ)
代々将軍の正妻は、京都の公家からと決まっている

家重は、その話が決まってから、会ってもいない相手に対して、
恋心が募っていった

恋する男性は、とかく気持ちが不安定になる
ましてや、家重は特別
忠光がいなければ話すことすらできない

どんな駒でも前に進むことができると教えてくださったのは、家重様でございます。

忠音を呼び寄せて、聞く

そうび、を知っているか

忠光も知らないことば

棘があって、大変麗しいと聞く

はい、薔薇(そうび)でございますね
大阪におりましたとき、商人に聞いたことがございます

それを植えたい

散っても、次から次から花が咲き、いつまでも続くと聞いております
家重様が、自ら毎日花をさしあげれば、姫様にきっとまごころが通じましょう

京都
比宮(なみのみや)仕えるお幸(こう)は気持ちがふさいでいた
縁談が決まり、比宮は江戸に行ってしまう

思いもかけないことばをいただく

江戸に一緒に来てほしい

比宮は比宮で、まだ見ぬ生涯の旦那様の事を想って暮らしていた
お幸、早くお会いしたいものよのう

左様でございますね

江戸の屋敷につく
花器に薔薇が挿してあった

まあ
話には聞いたことがありますが、これが薔薇(そうび)なのですね

お幸がすかさず
ならば棘がございます
お気をつけございませ

城の侍女が応えた
棘は落としてございます
若君様がお手づからお摘みになられてございます

この時まで、
家重の特別な事情は、比宮側に一切伝えられていない

続きは、シリーズの次回

[日本の歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] 三日天下。その謎

「ことば日本史」シリーズ、戦国時代から

三日天下
1582年、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、
京都に入って天下を掌握。
しかし、わずか11日後の山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、
逃走の末に討たれた。
このことから、実際の天下は「三日間」ではなく約11日間だったものの、
「三日」と表現されることで短さが強調されている。

光秀を生んだ岐阜県では、伝説が伝わっている
光秀の母は、懐妊したとき、岩の上に立って水垢離しながら、
と祈った。
「たとえ三日なりとも天下を取るような男子を授けたまえ」

短期間だけ政権や権力を握ったものの、
すぐに失脚してしまうことを指す言葉として、一般的にも使われる

明智光秀は本当に天下を取るつもりだったんだろうか
私は個人的に、本能寺の変は日本史三大謎の一つだと思っている

こういった謎は、色んな人が説を展開するものなので
いくつか紹介してみましょう。

1. 野心説(天下取り説)
「光秀は自ら天下を狙っていた」
光秀は織田家の重臣の中でも高い地位にありましたが、
織田信長の下ではこれ以上の出世が望めないと考え、
自ら天下を取るために信長を討ったとする説。

2. 怨恨説(個人的な恨み)
「信長の過酷な仕打ちに耐えかねた」
信長は短気で気性が荒く、家臣に対しても厳しかったことで知られています。
光秀も何度か信長に冷遇され、屈辱を受けたとされています。
けっこうこの説が一般的でしょうか

3.黒幕説
「謎もの」には黒幕説ってつきもの
黒幕は誰かについては、その事件で結局は一番得したのは誰なの?
って発想から名前が上がっていきます
織田信長が死んで得する人
(1)朝廷
織田信長は朝廷を軽視していたようなので、そういう説が生まれます
(2)豊臣秀吉
単純に、織田信長の次に天下を取ったのは、秀吉だから、って発想ですが
光秀は秀吉に討たれた訳ですからね
この説だと、秀吉が光秀をそそのかして信長を討たせ
その後、さらに秀吉はその光秀をうってところまで計算していたということになるのでしょうか
(3)徳川家康
これはまた、大胆な説
まあ確かに、秀吉のさらにあとに天下を取ったのは家康ですが
そこまで遠大な計画をしていたのだろうか

まあ、歴史学者じゃない我々一般人は結局正しい答えなんて
最後まで分かりっこない。
一番面白い説を信じるっていうのが歴史を楽しむ方法だろうと思う
まあ、誰かに迷惑がかかるわけではないからね

とはいえ、私としては、やはり一般的に言われている怨恨説が中心ではありますが
単純な怨恨だけではなく、他の理由もあった複合的なものだったんだろうと思います。

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[外交]7 15年戦争の始まり。満州事変から

外交資料館に行って来ました
[外交]2 条約の改正に頑張る外務大臣たち
[外交]3 日清戦争は朝鮮の内乱?
[外交]4 三国干渉から日露戦争へ
[外交]5 日露戦争から第一次世界大戦へ
[外交]6 第二次世界大戦への背景
の続きです

第二次世界大戦ってその期間だけ戦争をしていたと思いがちですが
十五年戦争といってその前から日本は中国で戦争をしています
その始まり、満州事変から

満州事変
前回、張学良が蒋介石の中国国民政府と手を組んだ話をしました。
そして、日本が手に入れたいくつかの満州における権利を取り戻そうとする
さらに、イギリスとアメリカが、中国国民政府を認めます

追い込まれた日本の関東軍が動き、戦争を仕掛けようとする
そのためには口実が必要
とんでもないことを考える
日本が権益を持っていた南満州鉄道を爆破。
柳条湖事件1931年
中国にやられたと騒ぎ立てるのですが
実は自作自演

戦争を始めます。1931年、満州事変と言います。
さらに、正当化したい関東軍は、
なくなっちゃった清の最後の黄帝、ラストエンペラー溥儀(ふぎ)を立てて
満州国というのを作らせます(1932年)

満州には、中国の漢民族とは違う満州民族というのが住んでいるので
満州民族の自立した国を作るんだと。

もちろん後ろで糸を引いているのは、中国(満洲)にいる日本の陸軍、関東軍です
日本政府はその時、犬養毅首相
犬養毅首相は満洲国のことを認めません

当時色んな権益があったので、日本の景気はかなり良かった
景気が良いと言うのは、国民は政治が良いと勘違いしてしまいます
今から思うと暴走している関東軍ですが
国民は必ずしもそうは思っていない

犬養首相に対しても風当たりが強くなってくる
そして、あの忌まわしい事件
五・十五事件で犬養首相が暗殺されます
1932年5月15日

大きく言うと、明治維新から始まった日本の政治は
薩長、特に長州の藩閥政治で始まり
長い時をかけて、政党政治に変わっていった
憲政の常道と言われる、国会で多数を占めた政党による政治
国民の選挙により担保されたその仕組みを国民が作り上げたと言える
犬養首相は最後の政党政治
このあと、戦後になるまで、政党からの首相は、生まれていません
軍による内閣

犬養首相のあと、いきなり陸軍の首相にはなりませんでした
やはり、陸軍が突っ走っている感はある
陸軍を抑えるとして海軍の穏健派、斎藤実首相になります
でもやっぱり軍は軍
斎藤首相は満州国を認めます

よく、太平洋戦争は陸軍が暴走したために起きた、と言われることがあります
間違ってはいないと思いますが
それだけであの戦争に突入していったわけじゃない
哀しいかな、やはり国民の総意として戦争に向かっていったという気がします
そこに、我々が歴史から学ばなければいけない点があると思う

このあと、さらに情況は悪化し
二・二六事件へと進んでいくのですが
続きはシリーズの次回

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[首相]48 海部俊樹。湾岸戦争と高い支持率

海部さんは爽やかなイメージでしたが、いつの間にか退陣していましたね。

海部俊樹

海部俊樹も前任の宇野宗佑と同様に、
派閥のトップでないにもかかわらず総理の座に就くが、
竹下登の指名だったという点でも共通している。
竹下の影響下にある、いわゆる、竹下支配である。

宇野宗佑辞任のとき、主要メンバーはリクルート事件に関係していた
安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄らニューリーダーは
自民党が定めた「1年間、もしくは次の総選挙まで党の役職を辞退する」という内規の対象となり謹慎中の身。
四大派閥(竹下派・安倍派・宮澤派・旧中曽根派)は
いずれも後釜の総裁候補を出せる状態になかった。

海部が初当選したときは29歳で、第29回衆議院議員総選挙
「29年後に総理になる」と公言したが、少数派閥なので本人としても冗談
なんと本当に29年後に総理になろうとは。

初の昭和生まれの総理である。

海部総理本人が金権とはほど遠い河本敏夫派 (三木派の後身)に属していたため、
若々しいイメージと相まって内閣支持率は最高時63%と高い数字を記録する。
自民党は海部人気を当てこみ、衆議院解散に打って出た。
1990年(平成2)2月の衆議院総選挙の結果、
自民党は286議席を獲得し、衆議院での安定多数を確保する。

同年8月、イラク軍が突如として隣国のクウェートを攻め、
翌年1月、湾岸戦争に発展した。
日本に求められたのは、総額130億ドル(約1兆6900億円)の拠出金だった。
資金的な協力だけでは国際社会からの評価が低い
日本は人的貢献もするべきか、との論が国の内外で起こる。

これを受けて9月、海部内閣は自衛隊を参加させるための
国連平和維持活動(PKO)協力法案を国会に提出したが、継続審議で終わった。

もうひとつ熱心に取り組んだのが、政治改革。
1991年(平成3)8月からの臨時国会に小選挙区比例代表並立制の法案を提出するものの、
自民党内では廃案に動く。

海部総理は「重大な決意で臨む」と述べて衆議院の解散を目論むが、
海部を支えている最大派閥の竹下派が解散に反対し、
海部続投も支持しないことを通告してきた。

10月5日、海部総理は自民党総裁選への立候補を断念すると表明し、
1月に退陣する。

最初から最後まで支持率は高いままだった。

まだ若かった事もあってその後、新進党を立ち上げるなど積極的に活動した

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