掘割を辿ってきました

「川と掘割20の跡を辿る江戸東京歴史散歩」という本を読みました

徳川家康が江戸に幕府を開いたあと、どういう考え方で江戸の都市計画を行い
江戸から東京になってどう変わっていったか
その跡地を巡りながら考えましょうという何とも魅力的な企画の本

舟運から埋立へ
家康が目指した江戸の都市計画の考え方は「水の都」
江戸中に運河を張り巡らせて、舟での輸送を容易にして経済を活発化させよう

でも、それがこの令和の時代まで続くわけではなく
運河は埋め立てられて道路になり
舟運は道路と鉄道の輸送に取り変わっていく

よしっ、私もこの足で確認しようじゃありませんか
今日は、この赤線で囲われた部分を歩きました

まずは、銀座一丁目駅から歩くことにしましょう
江戸の街は、下町と言われる部分は埋め立てられて出来上がった部分が多い
埋め立てるにしても、間をちょっと開けて、運河にしておいた上で埋め立てていく

歩きつつ今の場所が江戸時代にはどうだったろうと知りたい時の強力なアプリが、大江戸今昔巡り
江戸時代の地図と現在の地図がオーバーラップして見れる

まずはこの右側のビルになっているところ

江戸時代には三十三間堀(さんじゅうさんけんぼり)だったところを埋め立てた

幅はちょうどビルの幅が、三十三間堀の幅

地図でいうと上側の楓川(かえでがわ)から
クイッとL字に曲がる辺りは、今埋め立てられた跡に、京橋公園が出来ている

いつ埋め立てられたかというと、関東大震災の跡、瓦礫が大量に出て、処分する場所がなくて困ったから
それが分かるこんな看板もあった

青丸のところが京橋公園

そのもう少し上、京橋川は、埋め立てられて、高速道路になっている

面白いのは、南北に伸びる高速道路が真っ直ぐなこと
江戸時代の掘割がそのまま、埋め立てられて高速道路になったとすると、間がちょっと足りない
楓川はその下の三十三間堀にクイッと曲がって繋がるのであって
下の築地川とは繋がっていない
実は、関東大震災の跡、楓川と築地川を連絡するための運河が新たに開削されている
江戸時代には舟運が重要視されていたから、運河をいっぱい掘る必要があったけど
明治時代に、馬車や路面電車が出てきて、道路が重要になってくる
さらに鉄道が敷かれていくから
運河は重要視されなくなっていくだろう
関東大震災のあとは、復興事業として、運河は埋め立てられて、道路に変わっていくのだろう
と思いきや
半分あっていて、半分間違っている
関東大震災の災害時には道路や路面電車はほとんど役に立たなかった
むしろ、運河の船の方が役に立った
更にいうと、この頃の船は、江戸時代とは違って、動力が付くようになっているから
早いし、多くの荷物を運べると、再評価されている
楓川と築地川を連絡するための運河を作り、水上バス網を構築していく

赤い印をつけたのは、関東大震災後に新たに開削された運河

まだまだ続きまして話が長くなりますので一旦区切ります
続きは明日

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

[織田信長]11 石山本願寺、松永久秀との戦い

[織田信長]1 まむし殿の娘、濃姫
[織田信長]2 二人だけの時間では
[織田信長]3 美濃はそなたに差し上げる
[織田信長]4 血戦桶狭間
[織田信長]5 天下をお取りになるまでは
[織田信長]6 上洛の大義名分
[織田信長]7 義昭を将軍に
[織田信長]8 姉川の戦い
[織田信長]9 武田信玄西上
[織田信長]10 長篠の戦い
の続きです

石山本願寺
一向宗(浄土真宗)の本拠地、石山本願寺は当時強大な軍事力を誇っていた
歴史を読んでいて、これが感覚として分かりづらいところです
戦国大名たちが領土を取り合って戦うのは分かるとして
なんでまた、寺がそこに関わるの?と思うのですが
何度も出てくる石山本願寺は、戦国大名だと考えた方が良い気がします

石山本願寺のある場所は、今の大阪城がある場所
八町四方の城郭で、柵逆茂木を五重につけ、
その内に広さ五間ばかりの空堀を深くうがち、その後にまた総堀を構え、
櫓々に鉄砲を配し、諸門を固く守って、正しく難攻不落であった
この後、石山城と表現することにします

信長が最も苦戦した敵は、まさしくこの石山本願寺

石山城はあまりにも堅牢なので、信長は兵糧攻めにする作戦をとる
本願寺側は、急使を毛利氏に送り、援兵と兵粮とを至急送ってくれるように頼む
毛利は強大。中国地方はほぼ毛利の手中にある
毛利としても、石山城が落ちれば、信長が次にこちらに来るのはわかっている
何とか本願寺に頑張ってもらわなきゃいけない
石山城は一面が海に面しているから、織田勢が周りを囲むには、船を配備

毛利は超優秀な水軍を持っている
水の上なら任しとけ
水軍素人の織田勢は阻止できなかった
毛利方は、運んできた兵粮の凡てを、石山城内に入れることに成功した

とすると、
兵糧攻め作戦自体が意味を無くしてしまった
かと言って、総攻撃をかけようにも城が強固すぎる
ただ囲んでいるだけで、いたずらに時が過ぎていくのみ

松永久秀
かつて強大な勢力を誇った三好氏の家臣だった松永久秀
三好長慶の息子義興が病死し、お世継ぎがいなくなる
仕方ないので養子義継を迎えるが、幼かったがゆえ
松永久秀が義継をうまく使い、三好内で欲しいがままに権力を奮い
近畿では最大の大名となる
それでも、信長には到底かなわないと
早い段階で、信長に数々の贈り物を届け、傘下に入る

それなりに、織田連合の中で活躍し地位を確立していく
ただ、残念ながら、人望も無く器が小さかったので
たびたび信長に罵声を浴びせられたりもする

石山本願寺が膠着状態にあることを好機と考え
松永久秀が反乱に転じた
信長が北陸に出兵中に兵を上げる
信長の嫡子信忠が将となり、佐久間、丹羽、羽柴、明智等が征伐隊に加わる
石山本願寺と連絡を取り、同様の籠城作戦
第二の石山城となり強固な防御

包囲網も2つに分かれざるを得ず、持久戦がさらに長引くと思われた

ある夜、一人の男が城を抜け出し石山本願寺等に援軍を求めようとする
ところが暗闇で道に迷い、気がつけば佐久間信盛の陣地に紛れ込んでしまった
たちまち捕らえられ、拷問を受け、合言葉を白状した

〇〇〇、第一陣の援軍到着いたしました
城兵は喜んで受け入れる

城門に向かって突進し、中から門をこじ開ける
なだれ込む包囲陣
勝負あり

松永久秀は燃えさかる天守閣の中で自刃した

続きはシリーズの次回

[日本の歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] おすみつき

「ことば日本史」江戸時代から

おすみつき
将軍や大名が臣下にくだす文書、
とくに領地や勲功を確認する文書が、「御墨付」と呼ばれました。
そうした文書には、墨で花押(書き判)が記されていたことによります。
それが転じて、権威による保証を「御墨付」というようになりました。

同じ意味合いの言葉に「太鼓判を押す」というのがあります
こちらはこの「ことば日本史」シリーズでも書きました
武田信玄の甲州金(一分金)に由来します
こちらも読んでね
[ことば日本史] 太鼓判

折り紙つき
さらに、似た意味合いのものとして、「折り紙つき」というのもあります
平安時代にはすでに、朝廷などで正式の書類を作成する際には奉書という和紙が使われていました。
初めは、全紙サイズの和紙を使っていましたが、
そのうちいろいろな事情から、その全紙を横半分に折ったものを使うようになりました。
この全紙を横半分に折ったものを 「折り紙」 と言いました。

江戸時代になって、刀剣鑑定の権威だった本阿弥 (ほんあみ) 家が、
名刀の鑑定書にこの 「折り紙」 を用いたことから、
その道の権威者に品質を保証されたものを 「折り紙付き」 と言うようになりました。

これが、刀剣類だけでなく、その他の美術 ・ 陶芸品の分野でも
そしてさらに芸事の分野にまで広がっていきました。

お墨付きは、お上的な権威で
折り紙つきは、品質が優れたものについて、その分野において保証されている、
というニュアンスかと思います

[言葉]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇] 108-2 後水尾天皇

[天皇]108 後水尾天皇。和子の入内
の続きです

後水尾天皇

寛永3(1626)年には、9月6日から五日間、
後水尾が二条城(家康の上洛時の居城として造営)に行幸した。
徳川家と天皇の密接な関係が世間に示された大行事だった。

紫衣事件(しえじけん)
しかし翌年7月、
幕府が、朝廷が臨済宗や浄土宗の高僧に与えてきた紫衣を、
違法として剥奪する、という事件が起こった。

法的根拠は、慶長18年(1613)6月16日に家康が定めた
「勅許紫衣之法度(ちょっきょしえのはっと)」である。
紫衣とは、紫色の袈裟と法衣のことで、
もっとも尊貴な服の色とされ、古代以来、法親王(天皇の皇子)や高僧が勅許により着用を許されてきた
すなわち、紫衣を与えるのは、朝廷の権限であり、収入源だった

「紫衣を与える時は、幕府に告知すべし」というもの
後水尾天皇は、無視して、許可なく大徳寺や妙心寺の僧に紫衣を与えた

怒った秀忠は、紫衣を取り消すとした

ちょっと待て
紫衣を与えるのは朝廷の権限
幕府が取り消すって意味わからん
と、猛反発した仏教界

大徳寺の沢庵宗彭・玉室宗珀、妙心寺の東源彗等・単伝士印
等は、将軍相手に訴訟を起こした
結果、それぞれ島流しになる

天皇の勅許より、幕府の決めた法度の方が優位にあると示したことになる

後水尾天皇は怒り心頭
やっとれん、と女一宮に譲位を表明
女一宮は、後水尾天皇と秀忠の娘和子(まさこ)との間に出来た娘
譲位は幕府に拒否される

さらに、後水尾天皇が頭にきたのが
お福(春日局)が天皇への拝謁を求めてやってきたこと
天皇への拝謁には、原則五位以上の官位が必要
お福(春日局)には、何の官位も持たない
苦肉の策として、遠縁にあたる公家の従三位・参議の三条西実条(さんじょうにし さねえだ)の義理の妹(猶妹)として縁組を行い、
三条西家の女性の資格で特別に参内が許され、「春日局」という名前をもらう

幕府の意向で、例外中の例外の対応を迫られ、屈辱と感じた後水尾天皇は
再度譲位の意思を固める

ここまで、4回も譲位を表明して、拒否され続けているので
最終手段
勝手に譲位しちゃう作戦

極秘裏のうちに準備をすすめ
11/8に「譲位しちゃいました」と宣言
朝廷内部でさえごく一部の人しか知らなかったので、みんなびっくり仰天

後水尾天皇の奥さんで、新天皇のお母さんである、中宮和子(まさこ)から、
そのお父さんの秀忠に伝えられる

えらいことになるぞと、朝廷内ではビクビク

とはいえ、秀忠としても
ここで全面戦争というのもどうしていいか分からない
新天皇は、自分の娘の娘、自分の孫でもある
おそらくだいぶ考えたとは思うが
結局は、「叡慮次第(えいりょしだい)」、ご勝手に
ということになった

後水尾天皇、作戦勝ち

かくして、7歳の少女が、明正天皇として即位する
奈良時代の称徳天皇以来859年ぶりとなる女性天皇であった

後水尾天皇はこの後も、上皇として院政をしき、影響力を持ち続ける

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)