[縄文]5 道具づくり

[縄文] 縄文人は生きている
[縄文]2 ムラづくり
[縄文]3 森をひらきイエをつくる
[縄文]4 ムラができる
の続きです

東久留米第七小学校の6年生が卒業記念に造った版画集を元に出来上がった「縄文人は生きている」という本からの引用です

13.編む

縄文人がつくった道具というと、私たちはすぐに粘土を焼いた土器や石を打ち欠いてつくった石器を思いうかべるが、
その他にも木や竹などの植物、獣の皮や骨などでさまざまな道具をつくった。

木の皮や竹など腐りやすい材料でつくられた編(あみ)ものは、
非常に残りにくいものである。
そのために、私たちの祖先がいつごろから編ものをつくったかを知ることはむずかしい。
しかし、少なくとも今から約6000年前、
縄文時代前期のはじめには、立派な編ものがつくられていることは、
福井県鳥浜貝塚で確かめられている。

編むということは、ひとつひとつの小さな素材から
立体的なものをつくりだすことであり、
工夫しだいでさまざまな道具をつくりだすことができた。

14.撚(よ)る

編む技術とともに重要なのが、撚る技術である。
撚りをかけるということだけで、植物の繊維などは、より丈夫なひもや縄となった。

道具のほとんどは石の刃物と木の柄という、二つの素材を組み合わせたもので、
それを結びつけるための丈夫なひもと縄は、
イエをつくったり道具をつくるためにはなくてはならないものであった。

15.土器を焼く

縄文土器は1000度未満、おおよそ600から800度の温度で焼かれた素焼きの土の器である。

縄文土器を焼いた場所はまだみつかっていないが、
地面に燃料の薪と土器を積みあげて焼かれたものと考えられている。
地面はよくひどこからだき乾いた平らなところをえらび、
まず火床となる部分の空焚(からだき)をして、
土のなかの水分を完全にぬいておく必要がある。

これは土のなかに水分があると、
土器を焼いているときにそれが水蒸気となって土器につき、
ひび割れをおこす原因となるのをふせぐためと、
あらかじめつくった灰と焼け土で、
火床(ひどこ)の湿度効果を高めるためである。

燃料も注意しなければならない。
せっかく火床の水分をぬいても、
燃料が生のままだったり湿っていたりすれば、
それもひび割れをおこす原因となるからである。

よく乾燥した燃料をつかうのは、そのためである。

さて、いよいよ土器を火床にいれる番だ。
土器は火床のなかに口をうえにして立て、
そのまわりに燃料である薪を積みあげる。
このとき土器のなかにも薪をいれると、
土器はむらなく焼ける。

よく乾いた薪に火をつけると、
炎がいきおいよくあがり、20分から30分もすると
土器は透けるような赤色となり、40分から50分もすると焼きあがる。
焼きあがった土器はすぐにはとりださず、
横に倒して、しばらく火床のうえでころがすときれいに焼きあがる。

「燃えろ!燃えろ!」
火床をかこんで、みんなの胸は期待でドキドキする。

[河村瑞賢]1 江戸へ

河村瑞賢(かわむらずいけん)の伝記小説「江戸を造った男」を読みました

河村瑞賢は江戸時代の商人で大成功をおさめ、
1代にして巨額の富を築いた紀伊国屋文左衛門のような豪商イメージだったのですが、
全く違っておりました

人生も考え方もとても面白かったので、シリーズにして紹介していきたいと思います

江戸へ
元和4(1618)年、伊勢国で生まれる
活躍するのは、江戸時代が武断政治から文治政治へ変わっていく、
将軍でいうと4代家綱から5代綱吉にかけてになる

小説では、ほぼ河村瑞賢(ずいけん)を名乗る前の七兵衛(しちべえ)で書かれているので
ブログでも七兵衛として書いていきます

13歳になった七兵衛は、江戸への憧れを日増しに強くする
江戸で口入屋(くちいれや)を営んでいる五郎八がやってくる
口入屋とは、今で言う人材紹介業です

父から
そなたは、以前から青雲の志を抱き、いつか江戸に出たいと申していたな
江戸へ行ってみるか

えっ、良いんですか

ただし、行くからには帰ってきてはならぬ
家督も弟に譲る前提だ

はい。もちろんです

では、五郎八殿が明日江戸へ発つ。一緒に行け

えっ、明日なんですか

家督相続放棄の念書も書く
この家とも縁が切れるのだと思うと実感が迫ってくる

寛永7(1630)年8月、七兵衛は人生の第一歩を歩み出した

江戸で
着替えの入った風呂敷一つを抱えた七兵衛は、
口入屋五郎八と共に菱垣廻船に乗って江戸に着いた

五郎八は「商用で人に会ってから店に帰る」と言い、
七兵衛を一人で浅草まで行かせた。
何とか人に聞きながら店に着く

番頭らしき人に事情を話すと、
上がり框(がまち)に腰掛けて待っていろと告げられた

いつまで経っても五郎八は帰ってこない
日が暮れて腹も減ってきたが、そのまま一刻(約二時間)ばかりじっとしていた。
誰からも声をかけられない

ようやく帰ってきた五郎八は酔っているらしく、足元が覚束ない

五郎八殿

おう、ここで何をしていた

番頭さんに『ここで待っていろ』と言われたので座っていました

どれくらい座っていた

一刻ほどです

馬鹿野郎!
突然、げんこつが落ちてきた。
それだけ時間があれば、店の掃除やら片付けやら、何か仕事ができるだろう

誰からも何も命じられなかったのです

いいか
江戸ではな、ぼうっとしている奴は置いていかれるだけだ。
命じられることだけしていたら、年を取っても下働きのままだ。
頭角を現したかったら、今、自分が何をすべきかを常に考えていろ

江戸での日々が始まった。
誰に何を言われずとも、誰よりも早く起き出し、店の周囲に水を打って掃き清める。
表口や土間も箒の跡が残るほど掃いた。
番頭や別の小僧が起きてくると、何をやるべきか率先して問うた。
それにより、徐々に朝の仕事が分かってきた。
また、問わなければ誰も仕事を教えてくれないことも知った。

七兵衛は誰よりも積極的に仕事を探し、身を粉にして働いた。
出入りしている定雇いの「頭」たちとも打ち解け、仕事内容も教えてもらえるようになった。

そんな日々が続き、次第に頭角を現した七兵衛は五郎八の覚えもめでたく、
寛永12(1635)年には、18歳で頭の一人に抜擢された

ここまでは順調に思えたが
五郎八が何者かに殺されるという事件が起きた

店は他の口入屋に買い取られることになる

元の五郎八のメンバーは全て冷遇され
次々とやめていき
七兵衛も辞めることになった

この続きはシリーズの次回ね

[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]54 小渕恵三

あくまで私の好みですが、記憶にある範囲内で一番好きな首相です

小渕恵三

橋本総理の跡を継いだ小渕恵三総理は、
同じ旧竹下派ながら性格・資質は正反対。
橋本が主要閣僚をこなし、政策通で、
選挙向けの人気の高さを誇ったのに対し、
小渕は閣僚経験も少なく、
温和な人柄に反して有権者受けするタイプではなかった。
アメリカの雑誌が、「冷めたピザ」と表現したほどだ。

それに対しては、冷めたピザもレンジに入れれば温まる、と返答した

小渕総理は、参議院で野党が過半数を占めているという、
「衆参ねじれ」のきびしい現実に就任早々から直面する。
金融機関の不良債権問題が当面の課題だったが、
金融関連法案については野党案を丸のみして乗り切った。

そこで、国会での安定勢力を得るため、
野中広務官房長官が主導して、小沢一郎党首率いる自由党との連立工作に動く。
菅直人民主党代表の「金融危機を政局にしない」との発言に
小沢党首が反発したことも自民党に幸いし、
1999年(平成口)1月、自由党との「自自連立」に合意。
10月には公明党が加わり、「自自公連立」を組む。

同年の通常国会では、日米安保体制を強化するための周辺事態法(日米新ガイドライン)が成立。
さらに通信傍受法、国旗・国歌法といった、論議をよんだ法律を次々に成立させていく。

2000年(平成12) に入ると、自由党の連立離脱問題が浮上する。

小渕総理にとって苦悩の日々が続くなか、
4月2日、脳梗塞で倒れて緊急入院。
内閣は4月4日に総辞職し、小渕は5月14日に死去する。

リーダーの形
私がなぜ小渕恵三がを好きかといえば
リーダーとしてのスタイルが好きだから

明らかにそれまでの多才な首相と異なり
小物感が否めない
おそらく自分もそれを自覚し
グイグイ引っ張っていくのは無理だと判断したのだと思う
ブッチホンと言われるように
誰彼となく気さくに電話をかけ
親しみやすい

有能な人材をどんどん登用し、自由に色々やらせて活かしていく
自分としての色を持っていないから、出来た事なんじゃないかと
あくまで私がその時持った印象ですが。

何だかんだ言って、かなりの法案を通している
その中で私が一番好きなのは、2000円札を発行したこと

たまたま2000年になったから、という何とも単純な発想
私はこれは、国が行った唯一のジョークだと思っている
とても笑える
今、誰も2000円札のことなんて覚えていないと思う
2000年に2000円札が発行されたんだよ
全く使いづらくてさあ
アホちゃう?

関西人の感覚としては、1回くらいは国家をあげてアホみたいな事をやってほしくて
それをやっちゃった小渕恵三に大賛辞を送りたい
誰にも賛同いただけないとは思いますが

あと、頭から離れないのは、亡くなる前の発言です
何か聞かれて、全く意味不明なトンチンカンな事を言って
テレビを見ていて、
あれ、どうしちゃったの?
と思ったら、亡くなっちゃった
衝撃的だったなあ

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

[織田信長]10 長篠の戦い

[織田信長]1 まむし殿の娘、濃姫
[織田信長]2 二人だけの時間では
[織田信長]3 美濃はそなたに差し上げる
[織田信長]4 血戦桶狭間
[織田信長]5 天下をお取りになるまでは
[織田信長]6 上洛の大義名分
[織田信長]7 義昭を将軍に
[織田信長]8 姉川の戦い
[織田信長]9 武田信玄西上
の続きです

秀吉
羽柴秀吉が織田信長に極秘作戦の訓練を行っていることを報告
銃の威力は今や誰も疑うものではありません。
しかし、一斉射撃を行ったところで、そこまで
次に弾をこめるまでに時間がかかりすぎるため
敵に付き込められて、それ以降は従来通りの白兵戦になってしまいます

確かにそうだが、何か方策があると申すか

はい。鉄砲隊を3列に配備します
最前列の鉄砲隊が一斉射撃すると、後ろに回って次の弾をこめます
第2列が一斉射撃、第3列が一斉射撃
と言う間に最初の鉄砲隊が弾をこめ終わっていて、また一斉射撃することができる

なるほど。言われてみればそう突飛なことでもないが、全く考えもつかなかった
よし、誰にも気づかれないよう訓練を進めよ

長篠
長篠は、甲州から遠江、三河を経て上方に出る関門に当り、
従来、しばしば武田、徳川両氏が互いに奪取し合ったところ

天正3年5月10日
徳川家康から、織田信長に、
「長篠城が武田勢に囲まれている
家康はその後詰(ごづめ)に向うが、敵は大軍、至急御援助賜わりたし」
との催促状が届いた

長篠城を守るは奥平定昌、守る兵は500
そこを武田勝頼率いる武田軍が、1万3千の兵をもって攻撃を開始した
たちまち城は囲まれたが、
決死の脱出で家康の元に、状況が伝えられたのだ

長篠城の奥平の防戦も何とか持ちこたえ
家康織田連合軍が到着

大軍来るの知らせに、武田勝頼、軍評定を開いて対策を協議
一旦撤退すべしとの意見が総勢だったが
跡部がひとつの情報をもたらす

織田の将、佐久間信盛が私に内応を約してまいりました
佐久間がこちらにつけば、勝ち目がございます

これは、信長の謀略だった
佐久間の内応は信長の命による偽計

両軍合戦の舞台となったのは、設楽原(したらがはら)の大高原
信長は出馬の時、諸隊に命じ、おびただしい量の柵木と縄を持ってこさせていた
連子川を隔てて、柵を長く立て連ね、諸隊をその後方に配置した
出撃のための門戸は100m置きに開けてある

柵の外には誘うために佐久間信盛の部隊

酒井忠次の部隊が、秘密裏に山を超え、武田軍の後方にも配備した

後方からものろしがあがるのを見て、武田勝頼は動揺するも
佐久間信盛を旗印を見ると大丈夫と安心
全軍喚声をあげて突出する

織田本隊に向かって、木柵に迫るも、一斉射撃でバタバタと倒れる
ただ、ここまでは覚悟の上
ここからが勝負!
の筈だったが、予想外の出来事
一斉射撃が、2度3度4度と続いていく
射撃をかわし、本隊に近づくと柵があるため
馬は柵に妨げられて、前脚を上げてしまう
そこを鉄砲が容赦なく狙い撃ちにした

それまで無類の強剛ぶりを発揮してきた武田の諸将勇士たちが
織田の名もない足軽の鉄砲でたあいなく討ち取られてしまった

織田徳川連合軍が完勝。武田勢は未曾有の大惨敗
長篠城を包囲していた武田軍も、設楽原の敗北を見て撤退

武田に代表される旧式戦術が織田に代表される新戦術に取って代わる事を意味した

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)