[足利将軍]8 義政。頑張る気持ちはあるんだけど

義政

7代将軍義勝が幼少にして、僅か1年で亡くなってしまったので、
当然義勝に子供がいるはずがありません。

次の将軍は、弟の義政ということになります
後で出てきますので、さらに弟に、義視(よしみ)という人がいるのを覚えておいて下さい

一般的には、この義政からが、戦国時代と言われます

なぜなら、義政の時期に応仁の乱が起きたからになります

年表的に言うと、義政の時代は、こんな時代になります

義勝の死後、義政が次期将軍と決まったものの、義勝同様にまだ幼少
1449年に元服して征夷大将軍になるまでは、有力守護大名たちの合議制で政治が進められていきます

さあ、征夷大将軍になりました
少しずつ政治に意欲を持ち始めます

自分でやりたいように進めていきたい
ということで、有力守護大名(重臣)よりも近臣、
すなわち、個人的に近しい人たちを重要視するようになります

乳母の今参局(いままいりのつぼね)、育ての親・烏丸資任(からすますけとう)、側近の有馬持家(ありまもちいえ)です。
全員、名前に「ま」が入っていることから、「三魔」と呼ばれます

なんだとう
重臣たちはやっきになって、三魔を追い落とそうとする大バトル
結局は重臣たちの勝利
義政は、三魔を失脚させざるを得なくなります

その後も自分でやりたい気持ちはあるので、頑張ります

そういった経緯は、お父さんの義教と似ているのですが
義教はあまりに強硬に意思を貫き、結局は反感をかい、殺されることになった

義政は、性格的に、そこまで強硬になれず
優柔不断なところがあった
一貫した思いきった手を打てない

守護大名たちの家督問題に立ち入り、勢力を削ごうという方策は
義教同様に試みるが
こっちについたかと思えば、急に逆側に鞍替えしたり
関東のゴタゴタにも立ち入るが引き際が分からず
28年もの長期に渡って、断続的に内乱が続くことになる

そうこうしているうちに、自分も歳を取ってくる
男の子は生まれるものの、次々、若くして亡くなってしまう

ひょっとして、このまま世継ぎに恵まれないかも

先にお話しした、弟の義視(よしみ)に声をかける

次にはお前にお願いすることになりそうだ
準備しておいてくれ

はーい

出家していた義視を連れ戻す

ところがその後、よくあるパターン
世継ぎが生まれ、元気に育ちそう

今までもこういうパターンは争いのもと

状況が悪かった

各守護大名たちの家督問題に首を突っ込んでいるから
あっちでもこっちでも内輪揉め

それだけならまだ良かったんだけど
実質将軍不在時代に、大名たちはかなり力をつけている
大名Aの1と大名Bの2と大名Cの1というように手を組んでグループ化していく
そうなると逆の片割れ同士が手を組んで対抗

東軍、西軍に分かれていく

そうなると、旗頭が欲しい
義視さん、どう?
うちに付かない?
我々が担げば、あなたはすぐにでも将軍だよ
ぐずぐずしてると、義政は息子に譲っちゃうよ

本当は仲の良い兄弟だったんだけどね

応仁の乱です

次回、またそのあたりのお話から

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]40-2 田中角栄。コンピュータ付きブルドーザー

[首相]40 田中角栄。苦学の時代
の続きです

田中角栄
1946年(昭和21)、田中は戦後初の総選挙に日本進歩党公認候補として立候補した。
政治顧問の大麻が「15万円出して、黙って1か月間こしに乗っていなさい。きっと当選するよ」
はーい

ところが、あえなく落選。
まったくよい勉強をした

そして1年後の総選挙に民主党からふたたび立候補
人海戦術で選挙活動に力を入れ、初当選を果たした。このとき28歳。

その後田中は、幣原喜重郎らと同志クラブ(のちに民主クラブ)を結成し、
小政党の離合集散が続くなかで、吉田茂の自由党と合同。
新しく発足した民主自由党の選挙部長となった。

1948年(昭和23)、民主自由党が少数政権を樹立すると、
田中は弱冠30歳で吉田内閣の法務政務次官に就任したが、
炭鉱国家管理法疑獄に連座して収賄容疑で逮捕されるという憂き目も見た(のち無罪)。
保守合同による自由民主党結成後の岸信介内閣では、
30歳で史上最年少の郵政大臣となった。
学歴のない大臣を迎え、
官僚たちは初めこそ冷やかな目で見ていたが、
間もなく彼らは驚かされることになる。
田中はなにも資料を見ずに細かなデータを早口で並べあげ、
豊かな法律知識を駆使してどんどん政策を推し進めたのだった。

その明晰な頭脳と強引なまでの実行力から、
のちについたあだ名が「コンピューター付きブルドーザー」である。

また、田中には官僚たちの結婚記念日や家族構成などの個人情報が頭にすべて入っており、
記念日などには彼らに温かな言葉をかけた。
パーティーにおいても土産の袋をふたつ渡し、
「ひとつは奥さんに渡しなさい」と言ったという。
官僚たちは田中のこの人間力にしびれ、
「この人のためにがんばろう」という気持ちを抱いたのだった。
田中は政治的に敵対する人間に対しても人情がこまやかだった。

1965年(昭和40)に天敵とまでいわれた社会党委員長河上丈太郎が亡くなると、
師走の冷たい雨が降るなかで2時間も立ちつづけ、野辺の送りをしたという。

郵政相時代に政界での地盤を固めたのちは、
出世街道まっしぐらである。
1961年(昭和36)、3歳で自民党政調会長、1962年(昭和33)には池田勇人内閣の大蔵大臣に就任。
翌々年の佐藤栄作内閣でもそのまま留任、
1965年(昭和40)には自民党幹事長となる。
肩書きだけでなく、田中は他の議員の追随を許さない実績をひっさげていた。
それは官僚を頼らず、自ら立案した法律(議員立法)を次から次へと成立させたことである。
住宅金融公庫法、公営住宅法、道路三法など、
田中が成立させた議員立法は合計33件で、
この件数を超えた国会議員はいまだにいない。
田中は1966年(昭和)に立てつづけに起きた自民党の不祥事(黒い霧事件)の責任をとって幹事長を辞任するが、
1968年(昭和3)に幹事長に復帰し、
1971年(昭和46)に通産大臣に就任。
綿製品の輸出をめぐってアメリカと長年にわたり難航していた繊維交渉をまとめあげた。
そして1972年(昭和47)、佐藤総理の退陣後、
党内多数派工作に勝利し、自民党総裁となる。

その日、新潟の実家では母フメが大勢の報道陣に囲まれていた。
田中は汗っかきである。
フメはテレビ画面に大写しになった汗だくの田中の額を、
思わずハンカチで拭いた。
その時に画面に映っていたのがこれ

38年前、裸一貫で故郷を出た男は、ついに宰相の座についたのである。

[勝海舟] 西郷隆盛や坂本龍馬との出会い

[勝海舟] 不良父ちゃんだったけど
[勝海舟] 船の上で死ぬなら本望
の続きです

咸臨丸でアメリカにいる間に、日本で大事件がおきます
桜田門外の変で、井伊直弼が暗殺される
さらに時代が大きく動いていきます。

39歳で、今度は江戸の講武所で砲術の師範役
40歳で、軍艦奉行と着実に出世していく中で
有名な坂本龍馬との出会いがあります

坂本龍馬が勝海舟を殺そうとして邸宅を訪れたが
その人柄に惚れ込んでしまい、逆に弟子になる
色んな歴史ドラマで面白く描かれる場面です

将軍の家茂(いえもち)に軍艦操練所というのを作りたいんですけど、と提案し許可を得る

翌年神戸に開設

坂本君、君も軍艦操練所に来ないか

はい、師匠

勝海舟が42歳の時です
この年、西郷隆盛と大阪で対面、お互いを認めあっています
この事があったので、後の江戸城無血開城会談にも影響したのだと思います

ところが、軍艦操練所のメンバーが問題を起こします
尊皇攘夷が吹き荒れているのでみんな血気盛ん

海舟も良からぬ事を考えているのではないかと疑われ
神戸の軍艦操練所が閉鎖になってしまいます

仕方なく、海舟は江戸に戻ります

一方の坂本龍馬はここから行動を別にすることになります

海舟は、あくまで幕府の人間

坂本龍馬は弟子である認識はあるものの
結果として幕府に弓を引くことになる、薩摩と長州の薩長同盟をまとめあげている
皮肉なものです

海舟は江戸にいるのでその事を知らない

第二次長州戦争が起こり、幕府は長州征伐しようとするが、大敗を決する
協力してくれるはずだった、薩摩が(なぜか)動かなかった

幕府で停戦交渉役をおおせつかったのが、勝海舟で停戦交渉をまとめる

結局のところ、勝海舟は軍艦奉行という勇ましい役職ではあるものの
自分から戦争を仕掛けようとは一切していない

敵を作る性格ではない
少なくとも、薩摩や長州を敵だとは考えていない

このあと、大詰めの幕末をむかえるが
なぜ、勝海舟が幕府側の「代表」という立場になり得たかというと
この「考え方」によるものだと思う

その大詰めは、シリーズの次回
[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[関東の戦国]3 北条氏現わる

[関東の戦国]1 戦国時代のベース
[関東の戦国]2 享徳の乱、長享の乱
の続きです。

北条氏現わる
チャンスとばかり、第4の勢力が台頭してきます。

北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢宗瑞(いせそうずい)
無茶苦茶強い。

息子の代、氏綱の時に
鎌倉幕府の時の最高権力者、北条氏を勝手に名乗ります。
だから、伊勢宗瑞は北条早雲ね

元の北条氏と紛らわしいので、「後北条」と言ったりします。
執権北条氏の鎌倉、すなわち相模国を押さえたので
我こそは北条氏の後継者なりって事でしょう。

こんな感じの勢力になります。

これ以降、北条氏と上杉氏の55年戦争に突入していきます。

北条氏綱
2代北条氏綱の時にガンガン勢力拡大
扇谷上杉氏の重要拠点、河越城、下総葛西城を攻略
国府台合戦で、小弓公方の足利家も滅亡させます。
とうとう、関東管領に就任
関東管領は、山内上杉憲政と北条氏綱の二人になります。
さらに娘を足利晴氏に嫁入りさせ
足利家と親戚になっちゃいます。

そして、荒れてしまっていた鎌倉の鶴岡八幡宮を大々的に再建
これってすごいことなんです。
鶴岡八幡宮は関東武士全部の守り神
本来なら、鎌倉公方がやるべきことなのですから。

北条氏康
1541年、堂々の功績を残した氏綱も年には勝てず死去
3代氏康にバトンタッチします。
もう少しで、鶴岡八幡宮が完成だったんですけどね。

27歳
対する山内上杉憲政は19歳。扇谷上杉朝定は17歳
周辺大名の今川義元は22歳。武田晴信(後の信玄)は21歳
世代交代で役者が揃ってまいりました。

5年後の1546年。北条氏康はとうとう扇谷上杉を滅亡させてしまいます。
ひとつ消えました。
引き続きターゲットは山内上杉氏

山内上杉憲政、連戦連敗
とうとう武蔵国全てが北条氏の領地となる
山内上杉憲政は、色んなところに逃れようとするが、
どこも受け入れてくれず、越後の長尾景虎を頼りにする

山内上杉憲政の没落で、関東管領は一本化
北条氏康一人が関東管領になります。

上杉謙信
景虎殿。わしゃつくづく悔しゅうござる。
ぜひお前様に、山内上杉の家督を継いでいただき、
憎き北条氏から関東の地を取り返していただきたい。

かしこまりました。
その思い、私が引き継ぎ、取り返して見せましょうぞ。

出ましたっ。最後の大役者。上杉謙信の誕生です。
この時、23歳。

続きは、シリーズの次回ね
[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)