[迷信]4 竹の花が咲くと悪いことが起こる

めったにお目にかかれない光景を目にすると、人は幸運が訪れるのではないかと期待したり、
不幸が起こるのではと身構えたりするものだ。

後者のひとつに竹の花に関するものがある。

竹はイネ科なので、イネに似た細い房状の花が咲く。 そして竹林のあちこちで花をつけたあ とに白っぽくなって、いっせいに枯れる。

しかも、竹の花が咲くのは60~120年に一度という長いサイクルなので、
生きているうちに一度も見ないという人も珍しくはない。

開花して一 気に枯れるという不思議な現象を目の当たりにすれば、
凶兆かと思っちゃうかも。

竹はなぜ花を咲かせると一度に枯れてしまうのかというと、
1本1本別の個体に見える竹林 の竹が地下茎でつながっているためである。

地下茎は竹林の地中に網目のように張り巡らされている。
前回も話しました
[迷信]3 地震のときは竹やぶに逃げろ

この茎も竹のように節があって、その節からタケノコが生えてくる。

ひとつの株だからこそ、花が咲くのも枯れるのも同時期になる。

ここで、不思議なことが。

同じ竹藪の中の竹たちは、地下で繋がっているからひとつなんですよ
これは分かりやすい。

とはいっても、すべての竹が同じ株でつながっているわけではない。
当然、違う場所の竹藪は、地下茎で繋がっていないから違う竹

なのにシンクロするんです。
1960年代には日本のマダケの3分の1が枯れてしまうということが起きているのだが、
なぜ全国各地で同じ周期で花が咲くのか、
そのメカニズムについてはまだわかっていないことが多い。

2019年にも各地で竹の花が咲いたことが確認されている。

そのあとコロナ
関係ないとは思うんですが。
うーん

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[天皇]96 後醍醐天皇。おしまいではなかった。始まりだった。

さあ、とうとうやってまいりました、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
倒幕の戦あれこれは、足利尊氏、新田義貞、楠木正成と色んな役者が登場するので
別立てでシリーズにしようと思います。
まずは、後醍醐天皇自身が幕府を倒そうと思った理由から

後醍醐天皇
大覚寺統 1318~1339年

時代的にはこの辺り

大覚寺統のボス後宇多が考えた作戦は
後二条天皇の子供の邦良親王を天皇にしよう
さらに、その前に後醍醐天皇を中継ぎとして挟み
二回連続大覚寺統としてなし崩し的に皇統を奪い取ろう。

後醍醐天皇に譲位させたあと
自分は院政をそこそこにし
実質的な政治を後醍醐天皇にやらせ
後醍醐天皇-邦良親王二人体制を確立しよう。

それまでって幼少で天皇になり、実質はそのお父さんが院政というパターンだった。
ところが、後醍醐天皇が即位したのは31歳
さらに、意欲があるという珍しいパターン

中継ぎという思惑がちょっと違っていた。

1324年、後宇多上皇が亡くなった。

後醍醐は内心「よしっ」
中継ぎなんぞと言わせないぞ
後宇多さえいなきゃこっちのもん
次は自分の息子に継がせるんだ

邦良派としては、こりゃまずい。
何とか早めに譲位させねば。

幕府に猛プッシュ

後宇多の死から三ヵ月後、突然、後醍醐が謀反の罪に問われる事件が起きた。
いわゆる「正中の変」である

後醍醐天皇が謀反を企てた一回目となっているけど
どうも怪しい
後醍醐天皇本人は証拠不十分として、おとがめなし。
同じようなことは、両統迭立状態になってから何度もありました。
譲位を迫る常套手段とも言える

邦良派かも知れないし、持明院統かも知れないし、両方が組んで企んだかも知れない
ただ、本当の倒幕計画のきっかけにはなったかも知れない

その後、事態が急変する。
肝心の邦良親王が若くして亡くなった。

勢いづく後醍醐天皇
後醍醐の次は大覚寺統だった訳だから、亡くなったところで持明院統には行かず
大覚寺統の自分の息子

ところが、幕府は、皇太子を持明院統の光厳に決めた。

クッソー、幕府のやろう

自分の息子は母親の身分が低い。
確かにちょっと弱いのは弱い。

でも、その次の皇太子こそは自分の息子に

ところが1331年、幕府が、さらにその次を、後二条天皇の息子の康仁とした上で
後醍醐に譲位を迫った

嫌だ。絶対に譲位なんてしない。

この時、後醍醐天皇は倒幕を決意したと思う。
幕府が存在する限り、皇統は自分のところにはやってこない。

1331年4月、側近の吉田定房が幕府に、
後醍醐は「世を乱」すと密告したため、後醍醐は窮地に立たされた。

その8月、幕府が退位を強制しようとした矢先、
後醍醐は内裏を脱出し、奈良から笠置寺に逃れ、幕府の軍勢に抵抗したが、
しかし、一ヵ月後に捕らえられ、天皇の地位を追われた。

天皇には光厳が、皇太子には康仁が立てられた
翌32年3月、後醍醐は隠岐に流罪にされ、
後醍醐側近の貴族等も処刑された。元弘の変である

残念でした。はい、おしまい。
後鳥羽の時と一緒ですね
となりそうですが
おしまいではなかった。

始まりだった。

このあとの事は、新しいシリーズと、天皇シリーズ後醍醐の続きを
行ったり来たりしながら続けていこうと思います。

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[ことば日本史]つまはじき。何をはじいたんでしょう。

「ことば日本史」の平安時代です。

前回、弘法大師の弘法も筆の誤り、の話をしました。

弘法大師空海や、伝教大師最澄、最澄の弟子の円仁や円珍が広めた密教
密教は、呪術という要素が強いものです

その呪術のなかには、簡単なので「お呪い(まじない)」として広く行われるようになったものもあり、そこから生まれたのが、次の言葉である。

つまはじき
これは「弾指(だんし)」という呪術からできた言葉。
親指以外の指を握って、拳の中心に力を集めるようにしながら、
親指で人差し指の脇を 押さえておいて、人差し指を勢いよくはじいて伸ばすと、
親指が中指の脇にあたって音を立てる。
それが「弾指」

この音には魔よけの呪力があるとされた。

やってみましたが、大した音は鳴らないけどなあ
ちゃんと鳴っている動画はこちら

承平5年(935)頃に成立した紀之の『土佐日記』
一月二十七日に、「今日は一日中風がやまなかった。爪弾きして、寝た」とあり、
その頃には僧ではなくとも 「はじき」という名のまじないとして
ふつうに行っていたことがわかる。

この例からもうかがわれるように、災厄を払う呪いを行うのは、
ことが思い通りにならずイライラしているときでもあって、
そこから他人への非難や軽蔑をしめす動作ともなった。

動作もいつからか、人差し指か中指を曲げて爪を親指の腹で押さえ、
力を入れたところで、親指を離して、ピンッとはじくようになった。
鼻くそを飛ばすときの動作でしょうか

拳に力を入れるということがなくなって、軽い動作になったわけだが、
そんなふうに指でピンッとはじくことは、
いかにも他人を馬鹿にしたり、除け者にしたりするという意味に似合っていて、
そういうことを「つまはじきにする」というようになったのでしょう

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[北条]14 高時。滅亡へのカウントダウン

[北条]3 北条泰時。激動から安定へ。御成敗式目でどうだ
[北条]4,5 経時そして時頼
[北条]8 時宗。元がやって来た。ぶえーっ
[北条]8-2 時宗。元がやって来た。こあーっ
[北条]9-1 貞時。神様にも言い分が。
[北条]9-2 貞時。ヒエーッ、何ともならん
の続きです。

嘉元の乱以降、あんなにやる気のあった貞時は
すっかりやる気を失い酒浸りの毎日。

高時
その息子、高時は、物心ついた時から
そんな変わり果てた貞時しか見ていません。

貞時が亡くなった時、高時は9歳でした。

高時政権の最高実力者となったのは、
かつて高時の祖父時宗を支えた安達泰盛の弟の孫安達時顕と
平頼綱の従兄弟の子長崎円喜

高時には何の権限も与えられませんでした。

酔っぱらいの父を見て育った高時にやるべき事が与えられず
闘犬と田楽踊りが大好きな酔っぱらいになっていきました。

時代的にはこの辺り
滅亡へのカウントダウンです。

朝廷側に何も起こらなければ、
じり貧なまま、次につなげられたかもしれません。

朝廷が後醍醐天皇だった。
朝廷内のいざこざに、知らぬ存ぜぬで通したかったし
そのつもりだったと思うが
結果的に後醍醐天皇の意図と異なってしまった。

1324年、後醍醐の反乱。正中の変
この時はおとがめなしにしたんですが。

1326年には、病のため24歳で執権職を辞して出家
もう執権ではないので、関わらなくても良かったんじゃないかと思いますが。

後醍醐再びの反乱。
捕らえて、隠岐に配流
ところが
1333年閏2月に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵

反乱を征討すべく仕向けた中に、足利尊氏と新田義貞がいた

二人に対してとった強い態度が反感を買い
倒幕へと一気に流れていこうとは。
結局は、全国の武士が押し寄せてくる。
このあたりの事は、後程詳しく辿っていくことにします。

そしてとうとう、新田義貞軍に、鎌倉に攻め入られ
高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、
北条一族や家臣らとともに自刃して果てた。享年31(満29歳没)。

高時の最期であり
鎌倉時代の最期です

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