[縄文]3 森をひらきイエをつくる

[縄文] 縄文人は生きている
[縄文]2 ムラづくり
の続きです

森をひらきイエをつくる
5 木を切る
ムラづくりは、はじめからイエや広場、それに墓の場所などの配置をきめてすすめられた。それにはひらかれた広い空間が必要であり、イエをつくるための木材も準備しなければならない。縄文人はムラをつくるために、まず深い森林を切りひらくことからはじめた。
「オーイ! 木がたおれるぞー」
石のオノで大きな木を切るのは大変な仕事であった。ムラびとはみんなで共同して、その作業にあたった。

6 竪穴住居の平面図をかく
縄文時代のイエである竪穴住居をつくるにも、
きまった方法があったと考えられる。
それは発掘されたイエの跡をよくみると、
平面の形が中心をとおる線に対して左右対象になるものが多いし、
同じ時期のイエをくらべてみると形やつくりがよく似ている

これは竪穴を掘るまえに、かなり正確な平面図せいかくを地面にえがいて形をきめていたためと考えられる。

7 竪穴を掘る
竪穴の広さは約30平方メートル、深さは約50センチメートルで、
それを掘るには、
石を打ち欠いてオノのようにつくった打製石斧と呼ばれる
土掘り具がつかわれた。
掘りあげた土はそのまますてないで、竪穴のまわりに積んで、
イエのなかに雨水などがはいらないような工夫がなされた。

8.9柱をたてる・柱組の完成
竪穴のつぎは、屋根をささえるために、竪穴の床面に柱の太さよりひとまわり大きく、柱の根を埋めるための、
深さ約50センチメートルの穴(柱穴)を掘る。
柱(主柱)の数は四本から六本というのが普通である。
柱には直径約20センチメートルくらいの、
まっすぐな丸太材がつかわれた。
垂直に立てられた柱に、
たる木と呼ばれる木をわたして屋根の形をつくると柱組の完成である。屋根は「寄棟(よせむね)造り」か「入母屋(いりもや)造り」 に近い形をとり、
出入口はひとつであったと考えられている。

「その縄をとってくれ!」
材木は植物の繊維を撚ってつくった縄や、
丈夫な木のつるで結びつけられ、組みたてられた。

10カヤをふく
最後に、屋根にカヤをふいて、一軒のイエが完成した。
「よし、これなら雨ももらないだろう」
竪穴住居は湿気の多いのが欠点だが、夏は涼しく、冬は暖かで、
思ったよりもすごしやすいイエだ

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中里遺跡で縄文人のイメージが覆る

北区を歩きました
北区を歩きました、の続き
の続きです

中里遺跡
ここ、前から行きたかったんです

地図を見ると近いように思えたけど
新幹線と在来線の線路を越えないといけない
随分戻らないと越える橋がない
ひえーっ
自転車借りといて良かった
歩きだったら諦めている距離

中里遺跡は、ひょっとして全国でもここだけなんじゃないかという
レア中のレアな貝塚の遺跡
日本で最初に発掘された大森貝塚の9年後に発見された。
通常、貝塚は、縄文人が暮らした集落の中にあり、縄文人が食べた貝の殻を捨てたごみ捨て場
ところが、この中里遺跡では、縄文人が使ったとされる土器がほとんど見つからなかった
縄文人が住んでいた訳じゃないのに、貝殻がいっぱい
不思議だあ

本格的な調査が行われて色んな事が分かってきた
1.ここは昔の海岸であったこと(内海)
2.わずかに出土された土器から、時代はやはり縄文時代であること
3.通常の貝塚とは桁違いの、超大量の貝殻があり、1kmにも及ぶ巨大貝塚、貝殻は大きなものがほとんど
4.貝を大量に加工したと思われる道具がいくつも見つかった
5.ほぼ完璧な丸木舟が見つかった

それまで、縄文時代の人の暮らしは、川沿いに住んで、集落を作り、ほぼ自給自足の生活だと思われていた
中里遺跡で、そのイメージが覆る

ここは、貝の加工を行う巨大な工場
職場であって、働く縄文人たちは、ここで暮らしている訳ではなく、周辺の集落に住み、通勤していた
大量生産された商品(加工された貝)は、丸木舟で石神井川を遡ったり、海に出て遠くまで運ばれ、商業が行われていた(流通ルートが確立されていた)
内海で、マガキとハマグリの大きなものだけが取られ、取れる季節が違うため、交互に層になっている。資源が枯渇しないよう、計画的に採取されたと思われる
貝殻があまりに多いため、海が埋め立てられていき、時代とともに海岸が変化していっている

ここからは私の推測だけど
もう、貨幣は存在していて、それは黒曜石だったんじゃないだろうか
丸木舟で運ばれた先でのやり取りは、黒曜石(お金)で行われ
集められたお金は、働いた従業員に、お給料として支払われたんじゃなかろうか
物々交換による商売だけだと、従業員としても、集められたものの中に欲しいものがなかったら、働く意味がない








ここからは、中里遺跡を紹介した資料からの抜粋


まだまだウォーキングは続きます
続きは次回

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[首相]52 村山富市。史上最高の眉毛

このあたりになってくると、つい最近ってイメージです
まさか、まさかの首相でした
眉毛もすごかった

なんと、まだご存命で101歳!

村山富市

羽田孜内閣のとき、新生党、日本新党、民社党などが
社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表。
社会党委員長村山富市は、事前の連絡がなかったと強く反発し連立政権を離脱した

自民党は、11ヶ月の野党生活のつらさから、総裁の河野洋平が
はみ出した社会党に声をかける
村山さんを首相として担ぎますので、組みませんか

自民党・社会党・新党さきがけによる連立政権(「自社さ」政権)が1994年(平成6)6月30日に誕生する。
社会党委員長が総理になったのは、
1948年(昭和23)に片山哲(かたやまてつ)内閣が退陣して以来、
16年ぶりのこと。

戦後政治のなかでも、これほど矛盾に満ちた内閣はない。
長く対立してきた保守と革新の2大政党の連立であり、
与党第1党が第2党の党首に総理の座を譲るなど、
常識では考えられない政権の誕生となった。
その背景には、反小沢一郎という感情的な要素も絡んでいた。

社会党総理の登場で日米安全保障条約防衛政策に対する懸念が生じたが、
村山総理は7月20日の衆議院本会議において、
「自衛隊は憲法の認めるものであると認識する」
「日米安保体制は必要だ」と表明して、従来の社会党の政策を転換。
「日の丸は国旗、君が代は国歌である」
「原子力発電は過渡的エネルギーとして認める」と、
現実路線を歩み出した。

相次ぐ災害事件
1995年(平成7)1月17日に阪神・淡路大震災、
3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。

いずれの事態でも、総理と内閣官房長官を社会党が務めた総理官邸の対応が遅れ、
危機管理能力の低さが国民からきびしい評価を受けた。
同年7月の参議院選挙で村山総理の社会党は大敗したものの、
自民党が46議席を得るなど、「自社さ」3党ではかろうじて過半数を維持。
投票率は44.5%と過去最低となり、
比例代表区選挙では野党の新進党が第1党となった。

8月15日、戦後50周年にあたって村山総理は「村山談話」を発表する。
先の戦争について「国策を誤り、植民地支配と侵略によって、
とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」との歴史認識を示し、
「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ち」(以上、原文からの要約)を表明した。

また、元従軍慰安婦に一時給付金を支出する「女性のためのアジア平和国民基金」の創設や、
被爆者援護法の制定などでは社会党政権らしさを発揮した。

しかし、バブル崩壊にともなう住宅金融専門会社(住専)の不良債権問題や
沖縄基地問題では、なす術がなく、1996年(平成8)1月5日、
村山総理は退陣を表明する。

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[織田信長]8 姉川の戦い

[織田信長]1 まむし殿の娘、濃姫
[織田信長]2 二人だけの時間では
[織田信長]3 美濃はそなたに差し上げる
[織田信長]4 血戦桶狭間
[織田信長]5 天下をお取りになるまでは
[織田信長]6 上洛の大義名分
[織田信長]7 義昭を将軍に
の続きです

朝倉攻め
美濃に以前から朝倉家の飛地がある。
朝倉としては、他国に飛地を持っていることは不便なので、
これを比叡山延暦寺に寄進した。
その代り、延暦寺と朝倉家とは、何か事が起こった場合には、互いに助け合うという約束を結んだ

信長は、そんな約束は認めない
美濃はすべて自分のものと考えているから、土地を没収してしまった

怒る延暦寺は、朝倉家に信長退治の密談を申し込んだ

間者を通じて、信長に筒抜け
信長は朝倉討伐を決意した

柴田勝家は
「先年、浅井家と御縁組の際、朝倉とは事を構えぬと誓約されました筈、
その朝倉と合戦に及ぶとあれば、一応、浅井氏へ御談合あって然るべしと存じますが」

「浅井に知らせたならば、浅井としては、織田、朝倉両家に義理を立てる方法に当惑するだろう
後で、やむを得なかったことを知らせるのが良かろう」

援軍に徳川を得て、朝倉に進軍
朝倉懸命の防戦も、一つ一つと主要な城が落とされていく

三日目、いよいよ本城一乗谷に乱入しようとした
その時、報がもたらされた

浅井長政、朝倉に内応して背面より来襲

まさか
信長は耳を疑った

次々、知らせが届く
六角氏出陣
延暦寺出陣
浅井軍迫る

信長は完全に、包囲された
援軍到着前に、一乗谷城に突っ込もうとする信長だったが
幹部たちは全員反対
いつもなら、独断でことを進める信長も
さすがに状況が悪すぎた

分かった引き揚げるとしよう
誰か、追っ手を食い止める殿(しんがり)役をかって出るものはおらんか

静まり返る

竹中半兵衛が秀吉の袖を引いた

「私めに、仰せ付けくださいませ」

幹部たちはほっと胸をなでおろした
良かった猿めが死んでくれるか

各部隊から貸し出された兵を合わせて、700
1万の朝倉勢を食い止めねばならない

わしは死ぬつもりはない
半兵衛、いかにする

徳川が椿峠の方に引き揚げていきました
その後を追いかけるのがよろしいでしょう

旗や兜を落としながら行けば、敵はこちらを追いかけてくるでしょう
追いつかれる前に徳川に追いつけば、徳川も大軍
激しい戦いは挑まないでしょう
敵が狙うは信長殿
徳川には恩怨はない
その時点で、信長は違う道を行ったと気づき、引き返していくでしょう
それだけ時間を稼げば、しんがりとしての役目は充分

未明に城を脱出した秀吉軍、急げ

朝倉軍、退去に気づく
旗や兜を見て、椿峠方面と判断
追えっ、追ええっ

追いつかれた秀吉軍必死の攻防

椿峠についた徳川、後方での異変に気づく
援軍出動

あれは、徳川か
謀られた。
信長じゃ、信長を追えっ

筋書き通り

姉川の戦い
信長にとっては屈辱だった
退去後、大急ぎで兵を立て直し、本格的に準備を始める

約2ヶ月後の6月28日早朝、
姉川を挾んで、北に浅井、朝倉勢1万8千、
南に織田、徳川勢2万8千、相対峙して決戦の火蓋が切られた

姉川の水深、約1メートル。
両軍、姉川を越しつ越されつ、水飛沫と血飛沫とをあげて、
はげしく闘った。

朝倉、浅井勢次第に敗れて、小谷へ向って走り、
織田、徳川勢はこれを急追して、小谷城に迫った
信長は、小谷城の堅牢が大量出血を余儀なくさせるであろうことを慮って、全軍に引揚命令を下した。
この日の戦い、午前5時に始まり、午後1時に至る。
浅井、朝倉方の死者1700余人、織田、徳川方の死者800余人

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