おーいお茶ミュージアムに行ってきました

(7/12[土]のことです)

ウォーキング同好会で、新橋に、おーいお茶ミュージアムとお茶の文化創造博物館ができたと聞きました

どのへんよ

ほら、旧新橋停車場があるじゃない
あそこ

あそこって、あそこは旧新橋停車場なんだけど・・

旧新橋停車場って
日本で初めて、新橋から横浜まで鉄道が通ったその新橋駅
当時の新橋駅をそのまま再現してあって、
ウォーキングイベントでも2回行っている超スペシャルポイント
新橋停車場開業の企画展に行ってきました
[解除後初]文明開化を歩く

ネットで検索してもやっぱりそこ
そんな馬鹿な
2階は確かにスペースあるけど、あのスペースは色んな企画展をやるためのスペースだから、そんなところに作ってもらっちゃ困るんだけど。
しかも、おーいお茶ミュージアムとお茶の文化創造博物館って2つも博物館作れるスペースがあるとは到底思えない
これは、実際に行って確認せねば

と、ずっと思っておりました

週末だ!
カミさんの仕事が変わって、週末カミさんが休みになってしまったので
なかなかお出かけできずにいます
一緒にイオンに買い物に行ったり、色々あります

掃除を終えて9時過ぎ
お出かけしてこようかな

良いけど、私は歯医者に行かなきゃいけないから
1時に帰ってこれる?

分かった
じゃあ行ってくるね

今日は、大阪から長女が来るのでとっても忙しい

9時過ぎにでかけて、1時に帰ってくるとなると1ヶ所が限度
よし、かねてから行きたかったおーいお茶ミュージアムに行こう
乗換案内で調べるとかなり厳しい
急げっ

新橋
お昼をゆっくり食べている暇がないので、立ち食いそば屋で大急ぎ
さあ、旧新橋停車場に着きました
この時点で11:15

おーいお茶ミュージアム
ああああっ、あったあ
1階かぁ

1階とは死角でございました
確かに、色んな展示は階段降りていった半分地下みたいなところ
そう言われると一階何があったんだろう

ネットで調べてみると、かつてビアダイニング銀座ライオンがあったそうです
そういうと、最初に行ったときにはあったような記憶が薄っすらと。

お茶の文化創造博物館は有料ですが、隣り合っているおーいお茶ミュージアムの方は、伊藤園の宣伝スペースなので無料です。
味の素とかブリジストンとか、色んなミュージアムに行きました

伊藤園さんってほんとにすごいなと思います
超大手のコカ・コーラやキリンとかと堂々渡り合ってますもんね

最初、缶入りのお茶を発売
ところが全然売れなかった
「煎茶」という漢字がそもそも読めないんじゃないの?
ネーミングを「おーいお茶」にしたら大ヒット

このネーミング素晴らしいと思います

一昔前の偉そうにしているご主人が
奥さんにお茶を入れて持ってこいと言っているフレーズな訳ですが
今どきそんな奴はいないよ、ってツッコミもできますし
一度で良いからそういうフレーズを言ってみたいと思うご主人たちには憧れのフレーズ
何よりも、家庭の文化の変革を象徴している
「おーいお茶」と言ったが最後、「冷蔵庫から勝手にどうぞ」
ペットボトルのパッケージを見つつ、だよねぇ

会社でもそうです
昔はOLの仕事にお茶くみなんてのがあって
訪問客があると、急須でお茶入れて出してました
今はテーブルにペットボトル運ばれますものね

お茶をお金を出して買うという世の中にしちゃったのは伊藤園さんでしょう

出たっ
超破格CM契約結べちゃうんだもの

お茶が、できるまでの工程が色々説明されています


おーいお茶といえば、パッケージに書かれた俳句

おーいお茶くんも可愛い

隣のお茶の文化創造博物館に行きましょう
いかんっ、この時点で11:25分

この続きは明日

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]51 羽田孜。短命内閣に終わるも、まだまだ頑張る

首相シリーズです

羽田孜(はたつとむ)

1992年、竹下派(「経世会」)の会長だった金丸元副総裁が「東京佐川急便事件」で議員辞職したことを契機に、羽田派を結成。
93年、「政治改革法案」をめぐって提出された宮沢喜一内閣の不信任決議案に賛成。
小沢一郎氏らとともに自民党を離れ、新たに新生党を結成し、党首となった。

同じく「新党ブーム」の波に乗った日本新党の細川護煕氏に協力し、非自民連立政権の細川政権の樹立に協力。副総理と外相を兼任した。

首相に
細川総理の突然の辞意表明は、かねてからの連立政権のきしみを一気に増大させてしまった。
小沢一郎新生党代表幹事と市川雄一公明党書記長が与党内を取り仕切るという「一・一ライン」に対する反発から、新党さきがけが最初に連立から離脱。
それでも首相となって、内閣発足という直前
社会党を除外して新生党、日本新党、民社党が
衆議院統一会派である「改新(かいしん)」結成に動いたことから、
社会党も離脱した。

このため、羽田総理は衆議院で多数派をもたない、
少数与党内閣をつくらざるを得なかった。

新生党代表幹事だった小沢一郎氏に対する
「二重権力」「強権手法」といった批判も続く

羽田総理の仕事としては、1994年(平成6)6月25日、
遅れに遅れていた1994年度予算を成立させたこと
社会党に対して連立復帰を働きかけたがうまくいかず、
内閣不信任案の可決が必至となる。

衆議院解散という選択肢もあったが、それだと中選挙区制での選挙となり、
羽田総理は小選挙区制の施行を進める立場上問題だと考え、
予算成立と同じ6月25日に総辞職を表明した。

2番目に短い、短命内閣64日間だった

その後
その後も羽田氏は自民党に代わる新たな政治勢力の結集を訴え、
新進党の結党に参加。
96年には盟友だった小沢氏と袂を分かって新進党を離れ、
新たに太陽党を結成。
1998年1月には太陽党、国民の声、フロム・ファイブの3党で結成された
民政党の代表に就任した。

98年4月、新・民主党の結党に参加。
幹事長や特別代表を歴任し、「党の顔」として
トレードマークである半袖の「省エネルック」で全国を飛び回った。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

[織田信長]7 義昭を将軍に

[織田信長]1 まむし殿の娘、濃姫
[織田信長]2 二人だけの時間では
[織田信長]3 美濃はそなたに差し上げる
[織田信長]4 血戦桶狭間
[織田信長]5 天下をお取りになるまでは
[織田信長]6 上洛の大義名分
の続きです。

上洛
足利義昭(よしあき)を将軍として擁立し、京へ登る
足利義栄(よしひで)を将軍と擁立する三好三人衆を倒す必要がある
岐阜から京への道のりで、立ちはだかるのが、三好三人衆に近い、六角氏
美濃、尾張、北伊勢の全土に大動員をかける
徳川も援軍に加わる

箕作(みつくり)城と和田山城とを同時に攻める。
先ず箕作城の討手は佐久間右衛門信盛、丹羽五郎左衛門長秀──そして木下藤吉郎秀吉
おおっと声が上がる
秀吉は大抜擢。武将として名が上がったのはこの時初めて

和田山城へは、森三左衛門可成、坂井右近政尚──そして明智十兵衛光秀
光秀はもっと意外だった
光秀にはほとんど部下がいなかったから、信長が部下を貸し出した

箕作城で激烈な攻防が続くが、次第に織田方が有利になり、終わりが見えてきた
ここで、秀吉が動く
開城を交渉して話をまとめる

佐久間と丹羽は、猿めが余計なことをせねば全滅できたものを、と呟いたが
論功一位が佐久間と丹羽、二位が秀吉とされたので満足
ただ、秀吉の部下は三百から五百に増やされた

和田山城は大苦戦
光秀が三の丸を攻め落とすと
森、坂井の軍勢が傍観が決め込むようになった
光秀孤軍奮闘の大苦戦
元々借りた部隊、なかなか思ったように動いてくれない
せっかく初めて与えられた機会。むざむざ討ち死にするしかないのか
と、思ったとき
箕作城開城の報がもたらされ
敵方から開城交渉が提案された
助かった

光秀は、開城させたことを信長に報告したが
であるか、と、うなづいただけで特に何の賞詞も与えなかった

緒戦二城での勝利の影響は大きく
他の城は戦意を失い、一両日のうちに、六角領内は全て信長に服した

信長は、岐阜を出発してわずか21日にして、京に入った

京で待ち構えていたはずの三好三人衆は、六角氏惨敗との知らせを受けて
早々に逃げ出してしまっていた
小清水城にいた足利義栄も、四国へと逃走した

その後、山城、摂津、河内、和泉の機内各地をことごとく平定し
義昭を奉じて、京へ戻る

義昭は朝廷から正式に征夷大将軍の宣下を受け、第15代足利将軍になった

義昭は、信長への謝意をどう表せば良いかと
管領職は?
副将軍では?
と聞くが、いずれも「否」

岐阜に戻ることを告げる

何、もう帰国されるのか

国許がいささか心もとない

又すぐに上洛してくれるであろうな

必要とあればいつでも

国許に帰った信長は次なる相手、南伊勢の北畠氏の征討を準備
年が開け、そろそろかと思っているときに知らせが入った
三好の残党、本国寺の公方の仮屋形を襲いつつあり

北畠延期

その頃、義昭の本国寺では、必死の抗戦を繰り広げていた
義昭を守るはわずか千人ほど
攻めるは三千人
援軍が来るまで、何としても時間を稼がねば

義昭、坊主上がりで苦労してきたため、頭が回る

本国寺は代々三好家の深く帰依するところ
このまま、攻め続けなされば、
我は本国寺に火を放ち、自害いたします
本国寺に御意趣はなき筈
しばしお待ちいただければ、居を移そうと考えているがいかがか

確かに、本国寺には三好家の墓が多くある
明日まで、攻めを待とう
と、一旦軍を解いた

その隙に、連絡を入れた伊丹、池田らの援軍が、本国寺にどどっとなだれ込む
その数、三千五百。数では互角になった

坊主め、謀ったな

一方、信長は雪を蹴散らして岐阜城を後にしていた
わずか2日で、本国寺の山門に到着した

まさかっ
信長を見た三好一党は、恐れをなして逃げ出した

間に合ってくれた
義昭は、信長の手を取って涙を流した

本国寺では、危ない
強固な屋形を築いて差し上げよう
二条の旧御所の跡に大城郭の普請を命じた

40日足らずで、二条城を完成させた

続いて、朝廷の禁裏の修復に取り掛かるが
こちらは4年半をかけて重厚なものに仕上げていった

秀吉を呼ぶ
堺の商人が、三好に資金を提供していると聞いた
ひねり潰してくれ

殺すのは簡単ですが、首を絞めて金を出させる方が得策かと

そうか。ならばやってみい

秀吉が、堺におもむいた

その方等、三好に力を貸して、公方様に敵対する由、不埒千万
三方より火を放ち、全町焼き払ったあと、男女関わらず仕置する

風のとても強い日だった。信長の焼き討ちは有名。
火をつけられてはひとたまりもない

お待ちくださいませっ

今後公方に敵対行動をせぬこと、上納金2万両を直ちに献上することを約束させた

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[家重]6 まことでございます

[家重]1 まいまいつぶろと呼ばれた将軍
[家重]2 家重様の目と耳になってはならぬ
[家重]3 どんな駒でも、前に進むことができる
[家重]4 お庭をともに歩きとうございます
[家重]5 二人だけの合図
の続きです

川下り
比宮(なみのみや)と家重は、江戸城の外へと出掛けた
隅田川の船下りをしながらの花見
お父さんの吉宗が隅田川の堤防に植えた山桜

雪を被った富士山が遠くに見える
水面を流れる風がひんやりと心地よい

比宮さんはいつからあんなに家重様とお話ができるようになったのでしょう

船の上では、忠光は必要なかった

頻繁にやり取りされる文(ふみ)で多くのことが分かりあえていた

家重が比宮の袖にとんと指を置くと、家重の目線の先を比宮が見る
おそらくそこには、比宮がこのむもの
比宮は喜んで二言三言話しかける
二人でそれから船が揺れるほど笑い合う

庭で
梅雨の時期になった
庭にかたつむりがいる

「大きな殻を背負ってのろのろと。まいまいつぶろは殿のよう。もっと小さな殻にすれば良いのに」
歩いたあとが濡れている
「殿がまいまいなら、妻の私もまいまい。誰ぞが殿のことをそう呼ぶのなら、私もまいまいと呼ぶが良い」

家重の足音が聞こえた
片足を引きずるのですぐに分かる

「おいでなさいませ」

「ああーーー」
忠光は口を挟まなかった
傍らに腰を降ろした

「まことでございます。やや子を授かりました」

家重は何度もうなづいた。

「必ず丈夫な赤子を産んでご覧に入れます。もう誰にも何も言わせませぬ」

「もう十分だ。増子は私の受けるそしりを消してくれた」
忠光の声も涙まじりだった
「私にこのような日が来るとは思っていなかった。子が・・できるのだな」
「私は生まれて初めて、父上を喜ばせる事ができた」

「まだ、男の子かどうか分りませぬ。無事に生まれるかどうかも。
もう少し先でございます。」

「私に子ができるということだけで父上は安心なさる。
私に限っては、男か女かはどうでもいい」

比宮が京を出てから2年が経っていた
家重と比宮がともに23歳になった5月の終わりだった。

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