大野弁吉はロボット技師

江戸の理系力シリーズは、天文学、数学、医学と来ましたが
今回から、機械工学です

ちょっと割り込みで、先に田中久重やっちゃいましたけどね

大野弁吉
おおのべんきち 機械工学 

からくり技師です。今でいうロボット
以前紹介した田中久重より、若干前になります。
田中久重。東芝未来科学館に行って来ました。
田中久重。東芝未来科学館に行って来ました。続き
甦れ、田中久重の万年時計

からくり鯉の滝登り

笛吹き童子

からくり舞鼓人形

ああ見てみたい
からくりって聞いただけで、「男の子」はたまりませんね
茶運び人形とかは、動画検索してもらえると見れますよ

面白いのが、ねずみからくり
ゼンマイを回すと人形が太鼓を叩き、
ネズミが穴からチョロチョロ出てきて、また穴に戻る

根付・飛び蛙も傑作
根付けはとても小さなアクセサリーなんだけど
3cmほどの小さな蛙がゼンマイ仕掛けでヒョコヒョコ飛び回る

ほおーっ、て感心するだけじゃなく
ユーモアがあって笑える。

からくり以外
からくり以外にも色んなことしましたよ

ピストル作ったり
望遠鏡や時計

鶴の形の模型飛行機で実際に飛ばして見せた。

何とカメラまで作っちゃっています。
日本に紹介されたのが、1841年
その数年後、もう、自分で作っちゃっています。

理解者
こんな弁吉の良き理解者だったのが「銭五」とも呼ばれた加賀の豪商、銭屋五兵衛

弁吉は富や名誉には全く無関心で、気紛れな性格。
仕事は気が向かなければ、頼まれてもやらないから
常に貧乏。

親交の深かった銭五からでさえ弁吉は生活の援助を受けようとしない。
見かねて、銭五が米を持ってきた

いらんことすな

俺はお前に施しをしようとは思っていない
これは今から頼む指物の前払い

味噌、醤油、野菜、魚、弁吉の大好きな酒、
そして奥さんの着物まで持ってきたんです。

田中久重は東洋のエジソン、と呼ばれていますが
大野弁吉は北陸のダ・ヴィンチと言われています。

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ハナグルマ

花カレンダー始めました

高松凌雲。赤十字の精神で

江戸の理系力シリーズです。
医学ジャンルとしてはこれが最終回です。

高松凌雲
たかまつりょううん 医学者 1836~1916

今の福岡県に産まれますが
江戸で医学を勉強しているお兄さんに刺激を受けて
自分も江戸に出て
石川桜所という蘭医に弟子入りし
書生として働きながらオランダ医学を学びます

その後、今度は大阪に行って、緒方洪庵の適塾に入門
オランダ語は自由に読み書きできるようになる

緒方洪庵が幕府の奥医師兼医学所頭取になって
適塾が閉鎖になってしまいます。

一回、田舎に帰りますが
やっぱり
って、江戸に舞い戻り
再度、石川桜所の元へ

石川桜所に随行して京都へ
そこで、噂を聞き付けた一橋家からお声がかかります。
幕府の奥詰医師となります。

フランス
幕末の一橋家

一橋慶喜が将軍になり
慶喜の弟、昭武はパリ万博に出展の為、フランスへ
そのまま、諸国に留学で回る

この時、あの渋谷栄一も同行して諸外国を回ったんでした。

なんと渋谷栄一以外にも同行した有名人がいたんですね
高松凌雲

フランスではパリ市民病院が併設している医学校へ入学
講義だけでなく、実際の病院での治療も見学
外科手術も目の当たりにし
あまりの技術の高度さに言葉を失う。

さらに、パリ市民病院に貧民病院が併設されているのを知り、見学
通称、神の家と言います。
貧しい病人を無料で治療しており
経費は全て富裕層からの寄附で賄われていることを知る

外国の新聞で幕府の崩壊を知り
新政府からの帰国命令で帰国した。

ここから、渋沢栄一とは若干動きが異なります
渋沢は新政府に抵抗する旧幕府の動きには同調しなかったが
高松凌雲は榎本武揚と共に函館に向かうことになる

榎本武揚から
箱館病院の院長になってくれませんか

病院の事に一切口出ししないということだったら良いですよ。

最新の医学のノウハウ及び、フランスから持ち帰った幾つかの器具がとても役に立った。

戦争が激化するにつれ
新政府の負傷者も担ぎ込まれるようになった

そいつは、憎き薩長の奴ら
何でこいつらを治療する
ここでとどめを刺してやる

幕府の兵士たちはいきりたつ。

待てっ

私にとっては同じ患者
気にいらないんだったら
出ていってください

いよいよ、官軍が函館病院の近くまで迫ってきた

榎本さん、あなたは必要な人だ。逃げてください。
ただ、私には患者がいる
函館病院は私の城
ここに、残ります。

不安がる病院のメンバーを説得

薩長たりとも人間
我々が取りうる方法はひとつ
無抵抗

全ての武器をタンスにしまいこむ

なだれ込んできた官軍に
薩摩藩の山下喜次郎という人物がいた

天下様はみだりに殺戮することを禁じている。
まして傷病者とあればなおさらである

さらにそのあと、同じく薩摩藩の村橋久成(後のサッポロビール創始者)がきて
和平を促す。
高松は説得に応じ、榎本に「降参しましょう」と手紙を書く

返答は
高松の無事を喜び、今までの患者達への配慮に感謝する
薩摩藩の特別の配慮に感謝する
自分は討ち死にするが
新政府の函館戦争の総指揮官、黒田清隆にお渡し願いたいものがある

オランダ留学の時から肌身離さず持ち歩いていた「海律全書」国際海洋法の本

その後
ご存知の通り、幕府は敗れます。

黒田清隆が、榎本武揚という男に惚れて
頭を丸めてまで、新政府の首脳陣に助命嘆願したこと
その後の榎本武揚の活躍はこちらを読んでね
榎本武揚。後半。この命に意味があるのなら

高松凌雲にもお声がかかります。

すみませんが
お世話になるつもりはありません。

やりたいことがある

それは、あのフランスで見た貧民病院、神の家

一開業医として理想の実現へ
この病院は成功し、貧窮の人達は無料で治療。

ということはひょっとして、日本赤十字を始めた人?

ちょっと違うんだなあ

佐野常民
日本赤十字の創始者は佐野常民
佐賀藩です。

あれ?聞いたことあるような

はい。
田中久重に佐賀藩に来ない?と誘った人物
繋がりました。
こういうの楽しいですよね

実は、佐野常民も緒方洪庵の適塾に入門し
パリ万博にも同行し
高松凌雲と共に、フランスの神の家に感激した一人

高松凌雲は函館戦争でしたが
佐野常民はその後の、西南戦争の時に
敵味方を分けない、赤十字的活動を行います。

目指すものは一緒なので
佐野常民は高松に「一緒にやらない?」
とお誘いします。

一緒にやれれば良かったのにね
詳しい経緯は分からないんですが
結果、断っちゃっています。

その後、高松は一病院だけでは限界があると
同愛社というものを設立
榎本武揚、渋沢栄一が強力にバックアップし、
赤十字的活動を広く展開していきます。

一方、佐野常民は、博愛社というのを設立
後の日本赤十字社になります。

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アッツサクラ

花カレンダー始めました

楢林宗建で天然痘撲滅だ

江戸の理系力シリーズ。
シーボルトの弟子、楢林宗建(ならばやしそうけん)です。

天然痘は江戸時代は、疱瘡(ほうそう)や痘瘡(とうそう)と呼ばれ
最も怖れられていた病気で、致死率が4割を超えます。
人生50年の時代とは良く言いますが、実際に平均年齢を計算すると男女とも30~40歳ぐらい
もっと短いんですね。
なぜかというと、10歳までに天然痘を発症して死亡してしまう子供が多かったからです。

さらに、怖れられた理由はさらにあり
もし治ったとしても、後遺症で「あばた顔」が残りました。

三代将軍家光も、疱瘡にかかり、治ったあとの「あばた顔」で
コンプレックスで悩んでいます。
伊達政宗も疱瘡で右目を失明しています

加えて困ったのが、原因解明の糸口さえ無かったこと
異国からやって来た、疱瘡神の仕業と信じ込んだ
早くその神様に出ていってもらうため、ご馳走を用意して祈ったり
桃太郎の赤絵(赤一色で刷った絵)を家の中にペタペタ貼った。

うん、これで大丈夫

な訳ないですね。

天然痘
天然痘と言えばイギリス人エドワード・ジェンナー。
ジェンナーは、天然痘や牛の天然痘である牛痘に一度かかると、
今で言う免疫ができるのではないかと考え、牛痘にかかった人から膿を採取し、
ジェンナー家の使用人の息子8歳のフィリップス少年に接種するという人体実験をおこない
牛痘を使った天然痘ワクチンを作り出しました。

実は、日本において、ジェンナーの実験から6年前に秋月藩医の緒方春朔が、
牛痘ではなく、人の天然痘から採取した膿を子供に接種する実験に成功しています。

でも、ここ重要ね。
人痘法と、牛痘法って言うんだけど
人の天然痘だと、その元の人が死んでしまう確率が高いため
とても現実的とは言えない。
やっぱり、ジェンナーは偉大だったんだね。

シーボルト
シーボルトは牛痘法を理解していたので
日本に来るにおいて痘苗(ワクチン)を持ってきた。

どうだい、みんな
これで、疱瘡にかからなくなるんだよ

おおおっ、さすがは先生
素晴らしいです。
これで、みんなが助かるんですね

・・・

ところで先生
やたらに臭いですが
こういうもんですか?

ん?
ソーリーソーリー、アイムソーリー
これは腐っとりますな

オーマイガッ

楢林宗建
弟子の楢林宗建
シーボルトが永久追放になった後も
自分でもシーボルトに習った様々なノウハウを元に私塾「大成館」を開いていた。
そうこうしているうちにあの蘭癖大名佐賀藩の鍋島直正の目に止まりお誘い。
佐賀藩医となる。

佐賀藩の中で、疱瘡が大流行

鍋島直正が宗建に

何とかする方法はないものかなあ

ありますよ

えっあるの?
早く言ってよ。

長崎のオランダ人医師モーニッケを通じて痘苗を取り寄せてほしいと依頼
オランダから運んだのではやはり腐ってしまうので
オランダ船がジャカルタで途中寄港
そこで痘苗を製作。

手に入れた宗建は早速自分の子供、健三郎で実験。
大成功。

それを聞いた鍋島直正も自分の娘と息子で試して大成功。

噂を聞いた、福井藩でも、モーニッケに依頼
手に入れた藩医の笠原良策は「除痘館」を設け
子供たちへの種痘を少しずつ広めていく。

数年後、福井でも疱瘡が大流行。
ところが、種痘をした子供は誰一人疱瘡にかからなかった。

これには
「牛のできものを人間に植え付けるなんてとんでもない」と反対していた筈の人たちも大絶賛

一気に全国に広まっていきます。

大阪では「適塾」を開いていた緒方洪庵がやはり「除痘館」を設立

そして同じくシーボルトの門下生、伊東玄朴は、江戸で蘭医を開業中でしたが
楢林宗建から痘苗を分けてもらい
これまた自分の子供に接種して大成功。

江戸では漢方医の抵抗に会い、時間はかかりましたが
とうとう神田のお玉が池に種痘所を開設することができました。

楢林宗建の成功から5年後の事でした。
宗建は残念ながら江戸での種痘所開設を見届ける前に51歳で亡くなってしまっています。

この種痘法により天然痘患者は激減していき1977年、
最後の天然痘患者が報告されて以来、世界中で天然痘は完全に撲滅されました。
1980年、世界保健機関(WHO)は天然痘撲滅宣言を発表しました。

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楠本イネ、壮絶なる人生

江戸の理系力シリーズです。

割り込みいっぱい入っちゃいましたけど
医学に戻りましょう。

医学での前の回はシーボルトでしたね
今日は、その娘さん

楠本イネ
くすもといね 医学者 1827~1903

日本初の産婦人科女医です。

イネはお滝さんとシーボルトの娘
イネが2歳の時、あの悲劇がおきます。

日本地図持ち出しが発覚し、国外永久追放
お父さんとの思い出ってほとんど覚えていないでしょうね。

シーボルトは弟子の二宮敬作に、イネの事をくれぐれも頼んだよ、と言い残して行った。

二宮敬作については多少説明が必要です。
二宮敬作はシーボルトの塾、鳴滝塾の数多い有名な弟子たちの中でも
かなり早い時期に弟子入りした一人。

極めて熱心で、シーボルトもその才能を認めていた。
でも、ある日

すみません先生
塾をやめて、田舎に帰りたいと思います。

そりゃまたどうして

お恥ずかしい話ですが
もう長崎に滞在していられるお金がありません

そうなのか
それが理由とは、あまりにつらい
どうだろう、私の身の回りの世話をするという、仕事をしてくれないか
そうすれば、お給料を出してあげる事だって出来る

以降、二宮敬作はシーボルトの元で働きながら勉強する

二宮敬作はシーボルト事件で連座で逮捕されるが
やがて釈放

頼まれた通り、イネの面倒を見る
新しいお父さんのよう

2年後
お滝さんは、年下の楠本新兵衛
好人物でイネの事をとても可愛がります。

三人目のお父さんだね

だから楠本イネなんですね

当時、混血児っているわけないので
かなり奇異な目で見られたでしょうが
周りのみんなに愛されながら
育つことが出来たんですね

19歳
イネが19歳になって、ずっと考えていたことを実行するため
宇和島に行きます。

宇和島では、二人目のお父さん、二宮敬作が
開業医となっていました。

お父さん
私、お父さんのように医者になりたい

それは私としても嬉しいし
シーボルト先生もさぞやお喜びになることだろうが
女性で医者とは
全く考えたこともなかった。

それから、イネは二宮敬作の元で、医学を学びます。

しばらくして

色々考えたんだけど
私の専門、外科医となってくれると嬉しいんだけど
女性で医者というのは、世間に無いだけになかなか難しいこともあるだろう。
一つ
むしろ女性であることをメリットとして活かせる分野がある気がする
産婦人科はどうだろう

なるほど言われる通り

石井宗謙
シーボルトの弟子であり、岡山で産婦人科医を開業している
石井宗謙のもとを訪ね、弟子入りする。

勿論、石井宗謙も大歓迎

これでシーボルト先生に恩返し出来る。

宗謙は持てる知識の全てを伝授し
イネもそれに答えた。

6年と8ヶ月に及ぶ

ところが
途中から、宗謙にとって苦痛の日々に変わる

イネが美しすぎた。
ハーフですし。

残念ながら、若いときの写真が残っていないんですが
後で、その娘さんの写真を乗せますんで、そこから察してください。

恩師の娘、恩師の娘
自分に言い聞かせ続けるのだけれど
どうしようもなくなってしまった。
ある日、犯してしまう。

それならそれで、方法があったでしょうに。

尊敬して止まない大先生が突然の豹変

やがて妊娠したことが分かる

ただ、当時堕胎の出来る医師は石井宗謙しかいない。
宗謙に頼む訳にはいかない

産もう

身重の身で長旅も出来ないので岡山にとどまり
岡山で出産
タダと名付けた女の子

天からタダで授かった子だからという理由だそうです。
何だかすごいです。

タダちゃんが何とか歩けるようになって
郷里の長崎を目指す。

長崎で
長崎で、さらに深めるため
ポンペ、ボードマン、マンスフェルトからも学びます。
オランダ語は、あの大村益次郎から学んで
話せるようになっています。

その後、日蘭修好通商条約の締結を期に、
永久追放を解かれ
来日したシーボルトとも再開

時代は明治に変わります。

東京へ
イネは東京へ行きます。
そして築地で産科医を開業するのです。
この開業には、シーボルトの息子たち(シーボルトも向こうで再婚しています)
の支援を受けたようです。

日本の産婦人科の発展に大きく貢献しています。

明治6年には、明治天皇の権典侍・葉室光子さんが天皇の子を懐妊したというので
イネが召し出されています。
福澤諭吉の推薦らしいです。
宮中の医師として、出産を見届けています。
残念ながら、死産だったようなんですけど。

楠本高子
タダちゃん
ちょっといくらなんでも、その名前は可哀想なんじゃないの
と、伊達宗城に言われ
高子に改名しています。

さすがにシーボルトの娘ですね
有名な名前がバンバン出てきます。

高子ちゃん
クォーターになりますので
これまた可愛い。

松本零士が銀河鉄道999のメーテルのモデルにしたと言っているくらいです。
これが、高子ちゃんです。

次回は、またシーボルトの弟子の楢林宗建を紹介しますね

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