薬の事なら、小野蘭山に聞け

江戸の理系力シリーズ
本草学(ほんぞうがく)に入ります。

以前の遺伝学の成田屋留次郎、伊藤伊兵衛、水野忠暁らとかぶる感じはありますが
本草学は、植物を薬の観点からアプローチしたもの
薬学と言って良いかも知れません。

小野蘭山
おのらんざん 本草学 1729~1810

享保14(1729)年、京都に生まれる。

子供の頃から植物大好き
11歳の時、中国の植物書「秘伝花鏡」の全てを写しながら読破
16歳で本格的に弟子入り
25歳で私塾「衆芳軒」を開くまでになる

まだまだっ
とお勉強

寝るのは午後8時

あら、言う割には、早く寝るのね。
江戸時代は、ろくな灯りもないし仕方ないか、と思うでしょう

起きるのが、午前2時

もっと暗いです
蛍の光、窓の雪

そこから来る日も来る日も本を読む

幕府から
京都に本草学ですごいのがいるらしい

幕府から声がかかったのが、蘭山71歳の時

もう少し早く気づいてあげられなかったんだろうか

勉強できなくなると、嫌で嫌で仕方なかったんだけど
お上の命令には逆らえず、江戸へ

幕府の医学館で教授を勤めることになる。
蘭山の培った深い本草学が世の中に広まっていく

結果としてはめでたしめでたし

と思うでしょう

いいえ、ここからなんです。

この人の面白いのは、70歳にして
考え方を変えたところ

人間、本ばっかり読んでちゃダメ
外へ出よう。

おおおっ、あなたがそれを言いますか

本草学は、実際に役立つ薬草を全国から集めて回らなきゃ意味無いです。

良く言った!

ここから採取の旅が始まります。
芭蕉か、伊能忠敬かっていうくらい、徹底的に。
じいちゃん、歩く歩く

さらに、全国で弟子を取り、教えて回る

そして、75歳にして、長年の研究成果を「本草綱目啓蒙」という本にして発表
多くの弟子達に手伝ってもらいながら
なんと、全48巻を3年かけて完成。

学問的な成果もさることながら、蘭山はとても人柄が良かった。
80歳になった記念に祝賀会を開くと1000人もの弟子達が集まった。

さらに、「広参説」という本を執筆
でも、風邪をこじらせて、病床に伏す。
いくらなんでも、もう御苦労さんで良いと思いますが
病床の中で書き続け、とうとう完成。

間に合ったぁ
よし、この発表をもって

いや、気に入らないところが多々ある
もう少し正確性を高めねば

ええっ出さないんですか?

うーん、筆が、持てない

ほら。
良いじゃない、出そうよ

職孝、手伝ってくれる?

孫に作業してもらいながら、修正を続ける

そして、文化7(1810)年、1月27日、命が燃え尽きる
82歳でした。

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エゴノキ

花カレンダー始めました

木内石亭は石の研究で自然科学のパイオニア

江戸の理系力シリーズです。

木内石亭
きのうちせきてい 博物学 1724~1808

石です。
石の研究で名をなした人。

本名は重暁(しげあき)
そりゃそうですね
最初から石亭という名前だったら
バカボンのパパのようです。

11歳の頃から石に興味を持ち、のめり込みます。
とても渋い少年ですね

大人になってからもさらにエスカレート
奇石や珍石があると聞けばどこにでも出掛けていった

周りからは見ると、とてもアブナイ人ですね

でも本人からすると
石の面白さが分からないとは可哀想だなあ
人生の楽しみの大部分を失っている。

TBSラジオ安住紳一郎の日曜天国に年一回ずつ登場する「佐藤さん」みたいです。

日曜天国ではよくマニアックな趣味の人を良く紹介します
音を聞くだけで、どこのメーカーの型式が何かをピタリと言い当てる換気扇マニアとか
道端の石をひっくり返しながら歩く、陸貝(カタツムリとかナメクジ)マニアとか

そこで明らかになった事実は、
どんなにマニアックな趣味でも、同じことに興味を持っている人が
全国に200人はいるということ

インターネットのない時代
石亭は諸国を歩いて回り
その200人を探し当てることになります。

すると不思議なことに
奇石や珍石ファンは増加していきます。

私も堂々と、石が好きです、って言って良いのか

そして、加速度的に、石亭の元に珍しい石の情報が届くようになります。

石亭が収集した石は2000種類を越えます。
特に珍しい石と言われるのが31種類
「葡萄石」「天狗爪石」「金剛石」「木化玉」「石爪」「石梨」「石卵」「青玉髄」「黄玉髄」「赤玉髄」「白玉髄」「黒玉髄」「貯水紫水晶」「貯水白水晶」など

石っていうからえっ?て思うけど
なるほど、金剛石=ダイヤモンドだから
宝石を含むわけですね

そりゃ確かに200人どころじゃなくなってくるのは分かります。

収集品の中には自然石の他、人工的に作られたものも多くあった。

勾玉(まがたま)や石器。
石鏃(せきぞく)も1000個以上所有
縄文時代や弥生時代に作られたやじりです

当時は自然の石と思われていたんだけど
石亭が日本で初めて「人が作ったもの」という説を唱えたため
考古学の先駆者とも言われている。

当時、学問的には石(鉱石)は独立した学問ではなく
本草学(ほんぞうがく)のほんの一部門として研究している人はいた
本草学というのは、薬草とかの植物を中心とした博物学です

と言うことなので、本草学の権威とも色々交流
津島如蘭、小野蘭山、木村蒹葭堂(けんかどう)、平賀源内

弄石社(ろうせきしゃ)を結成して、全国の愛石家の指導的を果たします。

安永2(1773)年、「雲根志」(うんこんし)を発表
中国では、雲は石から産まれるらしいです。

なんと全部で15巻の大作

科学的考察だけでなく
各地の石にまつわる俗説とかも紹介

例えば、越後の雪化石というのがあるらしいんだけど
これは、鍾乳石(しょうにゅうせき)ですよ
雪は化石にはなりませんと

なんと、シーボルトは
著書「日本」の中で、
石器や勾玉などの考古学的考察部分を
石亭の研究から引いています。

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センリョウ(千両)

花カレンダー始めました

水野忠暁は園芸で異色を放つ

江戸の理系力シリーズ

植物の関係に参りましょう。

水野忠暁
みずのただあき 植物学 1767~1834

江戸においての園芸は寛永のツバキに始まり、元禄のツツジ、正徳のキク、寛政のカラタチバナ、
文化文政のアサガオと入れ替わり立ち替わり色んなものがブームになりました。

そのうち、元禄のツツジについては
ソメイヨシノを作った男は伊藤伊兵衛?
文化文政のアサガオについては
成田屋留次郎は朝顔おやじ
を見てね

江戸の園芸のレベルは世界でもトップクラス。
後にイギリスのプラントハンター、植物研究家のロバートフォーチュンが
あまりのレベルの高さにビックリ仰天

日本の菊を持ち帰ると西洋で、菊の大ブームが起き
さらに西洋で品種改良がなされて、世界中に広まったそうです。

今日は、寛政のカラタチバナに参りましょう

水野忠暁は旗本です。
500石

23歳で家督を継ぐんですが
親が植物好きだったもので子供の頃から植物に熱中。

えっ
武士がそんな悠長な事してて良いの?

はい。良いんです。
それが、平和が260年も続いた江戸時代の良いところ。

そもそもの発端は、徳川家康が大の植物好き
2代秀忠、3代家光もそう

武家諸法度で城を作るな庭園を作れとなった話はしましたが
そうなってきますと、武士のたしなみとしては
植物のうんちくのひとつも語れないようでは人付き合いができません。

そんな中でも、水野忠暁はレベルが違いました。
そうなってくると、みんながやっているツツジだ、キクだのではあきたらなくなってきます。

どっちの方向に行ったか

葉っぱです。

葉っぱぁ

今で言う観葉植物ですね

全部緑じゃなくて、白いところが入った斑(ふ)入りの葉っぱ
例えばカラタチバナでいうとこんな感じでしょうか

今では、そう珍しくない感じもしますが
突然変異なので、当時は極めて珍しい。

当時の武士達が熱狂します。

どんどんエスカレートしていって、
一鉢30両から50両は当たり前、中には100両を越えるものまで
1両ばくっと10万円と考えると、30両で300万円、100両だと1000万円

葉っぱですよ葉っぱ
1000万円ってあーた

武士って、威張っているだけで、
武士は喰わねど高楊枝、って
傘張りの内職しているイメージあるけど
あるところにはあるんですね。

でもさすがにここまで来ると別の意図を感じるんですが。

武士って長男じゃなきゃ結構悲惨
うまく養子先が見つかれば良いけど
冷たい視線を浴びつつ、暇を持て余す

今に見てろって言ったって、やれることは限られている。
肉体労働で頑張るにはプライドが邪魔しちゃう。

有り余る時間と、広い庭。
よしっ
珍しい植物育てて、一攫千金だ

年に3回まとまったお金をもらえるから
珍しい植物を買い込んで、うまく倍に分けて育てば大儲け
転売して、利鞘を稼いでも良いわけです。
要は投機対象。

ちょうど松平定信の時だから、あまり高いのは規制がかかっちゃいます。

とはいえ、お陰で日本の園芸のレベルが格段に上がった事も事実
その牽引をしたのが水野忠暁なのです。

変化朝顔の時も根気強く膨大な量の実験をしつつ
経験則として、こういう場合には突然変異の率が高まるという事を習得していきましたね

カラタチバナでも一緒です。
水野忠暁だけが判るにおいのようなもの
支援者のネットワークが張りめぐされ
全国から、斑入りの植物が集まってきて
独自のノウハウで高確率で増やしていく。

そして、作られた図鑑が「草木錦葉集」


カラタチバナと並んで、おもとというのも人気
万年青と書いて、おもとと読みます。

水野忠暁が育てた斑入りの植物は実に3000種類にもなったようです。

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ムラサキツユクサ

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成田屋留次郎は朝顔おやじ

江戸の理系力シリーズ

天文学、数学、医学、機械工学と来ましたね

さあ今日から、遺伝学と参りましょう
要は植物学ですね
ソメイヨシノの時期に、割り込みで伊藤伊兵衛やっちゃいましたけどね
ソメイヨシノを作った男は伊藤伊兵衛?

今回のテーマは朝顔
江戸の庶民に大ブームを2回もたらした。
第一次は、文化・文政年間(1804~1830)
第二次は、嘉永・安政年間(1848~1860)

まず、第一次ブームから

入谷
今でも入谷の朝顔市は有名ですね
第一次ブームは入谷から発祥するのですが
そのきっかけになったのが、丙寅の大火
下谷一帯は焼け野原になり、広い空き地ができた

江戸の警備とかを担当していた御徒組(おかちぐみ)という武士たちの屋敷が
下谷で焼けてしまう。
仕方ないので、この広い空き地で栽培をはじめたのが朝顔

その中でも一番熱心だったのが、大番組与力、谷七左衛門
大輪の花を咲かせたり、珍しい形の花や葉を作り出すことに成功。
変化朝顔と言います。
「朝顔屋敷」と呼ばれて、大勢見学に訪れる。

牡丹咲きというのは、この頃から出来てきたもの
牡丹を思わせる華やかな朝顔。


この第一次ブームで裾野が大きく広がることになります
植木屋はどっと増え
この時期は富裕層も増えていたので
珍しい朝顔のためなら、金に糸目はつけないという好事家も多くいました。

そんな中での第二次ブームです

成田屋留次郎
なりたやとめじろう 遺伝学者 1811~1891

変化朝顔って、人工交雑などの品種改良では出来ないんです。

普通の朝顔はその種を撒くと翌年も同じような花が咲きます。

変化朝顔の場合は、また咲くかも知れないし、咲かないかもしれない
根気よく何度も繰り返すしかない。

成田屋留次郎は全国から、変化朝顔が咲いたという情報を入手しては
そこへ出向いていって種を手に入れる
珍しいものであればあるほど種も高い値段になるが
好事家達のネットワークがあるので
今の値段に換算すると500万円もするような種でも買ってくる

例えば好事家の〇〇さんのお金で買った種
さあ、どうでしょう

ダメでした。普通の花

ほんまか、しゃあないな

ここで、文句を言ったら次に買ってもらえなくなります。

そんな博打のようなことを繰り返していても
根気よく、膨大な実験を繰り返していくなかで
留次郎は
こういうタイプの花や種であればこういう確率でこういう花が咲くという
法則性を見いだしていきます。

メンデルがエンドウ豆でメンデルの法則を発見する15年も前の事になります

三都一朝という本も書きます。


ちなみに成田屋というのは
市川団十郎の大ファンだったので
団十郎の屋号成田屋をそのまま、植木屋の屋号にしています。

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ツルハナナス

花カレンダー始めました