リモートワークを始めて

先週の金曜日から、リモートワークが始まりました。

全然外に出ません。

これはいかん。体がなまってしまいます。

仕方がないので、近所を歩きました
黒目川沿いのウォーキングコースを朝ちょこっと歩いてから仕事を始めました。

会社がリモートワーク用の端末を用意してくれて
会社にある自分のパソコンに自宅からアクセス
会社のパソコンを遠隔操作です。

おお便利
今まで、個人情報がどうのこうので
会社のパソコンを持ち出すことは不可能だったので
結局は一時期騒がれたサテライトオフィスなんて無理だった
いつの間にかこんなことまで出来るようになってたんですね
大したもんだ、技術ってやつは

とはいえ、それは理屈
そのリモートワークが出来るシステムは
良くできてはいるのですが
まさか寄ってたかってこんなに大人数で使われるとは思ってもいなかった。
パンクしちゃって繋がらないのなんの

なんだよ又切れちゃったよ、仕事になんないよこれじゃ
直属の上司に、こんなの使えないじゃないですか、と文句

でもふと冷静になってみたら、
そのまた上司から、リモートワークせい、と言われたから言っただけで
彼が悪い訳じゃない
繋がらないシステムも、こんなに急に増えるなんて誰が予想できたの?って事で
何も悪くない

みんな大変な思いをして外出しないで頑張ってる
誰も悪くないんだよね
ついイライラしちゃうからね

家族
カミさんは老人ホームの看護師だから、どうやったってリモートワークできないけど
娘二人もリモートワーク
家族で平日も家にいるなんて、今まで全くそんなことなかった。
この事をむしろ楽しむって感じは無理だけど
おそらく二度とない貴重な経験であることは事実

しっかりと記憶にとどめておきましょう。
お昼は次女が食事を作ってくれて
晩御飯は三人で分担して作る
もう、一週間分の作りおきは要りません。

長女が電話で年配の男性と打ち合わせ
おおう、対等にてきぱき段取り決めてるじゃない。

昔はちっちゃかったけど、一人前に仕事してるんだなあ
そうだろうとは思っていたけど、実際に横で聞いてみると感慨深いものがあります。

今日は、朝、次女と一緒に長めのウォーキングをしてから仕事につきました。
リモートワークになってから会話が増えたのは事実かな

逆に会社の仲間とのコミュニケーションはしずらいのは仕方ない
特に仕事って、必要なことだけ喋るんじゃなく
無駄話をしながらってのも重要だなあと思う。
若い衆は横にいなくてすぐに聞ける状態じゃないので
何とか一生懸命自分で判断している
それはそれで良かった気もする。

繋がりさえすれば、十分家でも仕事が出来る仕事内容だなあと思った
じゃあ、苦労しての出勤って何なの?という話になりますね
これが落ち着いたら、副産物として、働き方改革みたいなのが本格化するかも
9時から6時じゃなくても、とぎれとぎれでもトータル仕事時間がクリアすれば良いってことになると
子育てしながらの仕事もぐんとハードルが下がるしね

あっそうそう
長女の結婚式の件ですが
10/4への延期で落ち着きそうです。

[家族]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]45-2 聖武天皇。ど、どこ行くの

[天皇]45 聖武天皇。未曾有の大感染。
の続きです。

復興
疫病(天然痘)の大流行で、ぼろぼろになった政府に投入されたのが橘諸兄(たちばなのもろえ)
お父さんが美努王(みぬおう)という皇族で、母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのみちよ)
光明皇后と一緒のお母さんです。
母方の橘という姓を継いだので、元皇族の橘姓誕生です。

色んな復興策を取っていきますが、一番有名なのは墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)
教科書で出てきましたね
天智天皇が掲げた「全ての土地は国のもの」という大原則をとうとう完璧になきものとしました。
土地の私有を完全に認めます。
復興のために活力が必要だったんですね。

皇太子
人民の不安を解消すべく、次の天皇を決める事にしました。
候補としては、安積親王(あさかしんのう)という人がいます。
ただ、まだ11歳
光明皇后もまだ子供を産める年齢
どちらかに繋げば良いと思いつつ、早めに決めるため
聖武天皇と光明皇后の娘を皇太子としました。
後の孝謙天皇です。
女性の皇太子はあとにも先にもこの人だけです。

藤原広嗣の乱
藤原不比等の4人の息子は全員天然痘で亡くなったがその子供で生き残ったものも。
三男宇合(うまかい)の息子の藤原広嗣(ひろつぐ)
災害が続くのは政治が悪いからだ。
人事を一掃せよ
要求をつきつけるが、即座に謀反ととらえた。

挙兵の準備が満足にできないうちに、そっちの方が早かったか

藤原広嗣のいる太宰府へ、大野東人を大将軍とし、征討軍を派遣
征討軍が優勢のうちに進み
逐一大野東人は報告していった

ところが、聖武天皇は驚くべき返信をした

なんとこの大事な戦況の最中
元正太上天皇と光明皇后、そして多数の官人を引き連れて、
伊賀・伊勢・美濃・近江・山背を巡幸したのである

「朕は思うところがあるので、しばらく東へ赴くことにした。
戦乱の最中ではあるが、やむを得ないことである。
将軍よ、これを聞いて驚き怪しまないように」

驚き怪しむでしょうよ

聖武が平城京を発った10月29日、広嗣はすでに捕まっていた。

旅行を終えても、聖武天皇は平城京に帰らなかった
山背国相楽郡に新都恭仁京(くにきょう)を作るぞと宣言
復興だっていうときに何すんの
平城京じゃなきゃ奈良時代じゃないよ

自然豊かな美しい土地
疫病大流行の凄惨な記憶が生々しく戻るのが辛かったのかも知れないけれど

かなり本格的な遷都
五位以上の貴族には全員引っ越し命令
天平13年です。

でも、ここまでならまだね

甲賀郡紫香楽(しがらき)村に行きたいなあ
天平14年、一年のうちに4回も旅行し
紫香楽村に別荘を作ると
天平15年には4ヶ月もの長期滞在
そして、ここに大仏を作ると宣言

紫香楽村に関心が集中すると
恭仁京に手が回らなくなった
15年の暮れ、大極殿が完成したところで中断

まいった。中途半端だ
どうしようか

あっ、思い出した
すごく立派な都なのに放っておかれているところ
あの孝徳天皇の難波宮(なんばのみや)

じゃあ官人たちにアンケート
難波宮と恭仁京どっちを都にするのが良い?
難波宮が153票、恭仁京181票
さらに市人たちに聞くとほぼ全員が恭仁京

よしっ、難波宮だ

はあ?
じゃあなんでアンケート

大急ぎで高御座(たかみくら)等の天皇の象徴を移す

ところが皇都宣言のとき、聖武天皇は難波宮にいなかった
紫香楽村に行っていて
代理で元正太上天皇と橘諸兄が皇都宣言

紫香楽村には盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)が作られた。
聖武天皇が理想とする仏都がそこにはあった。

紫香楽宮
でも紫香楽宮の仏都は長く持たなかった
天平17年、新宮に山火事が相次いだ
政治に批判的な人が放火したのだ
さらに4月末から5月にかけて地震が多発した。

いたるところで地割れが発生し水が吹き出した。

これは聖武天皇にひどくこたえた

これは自分の失政に対する神の叱責ではなかろうか

ようやく分かったか

平城京へ戻ろう

ようやく分かってくれましたか

地震がおさまっていない8月末
聖武天皇は難波宮へ向かった

あれ?

そしてこの難波宮の地で病気になってしまう。
危篤状態

聖武の快復を祈って、神仏に祈禱を行ない、
殺生のもととなる鷹や鵜を捨て、3800人もの出家を許した

その甲斐あって聖武天皇が持ち直した。
平城京へ戻る

ただ本調子ではなく
元正太上天皇も病気になってしまい
そのまま帰らぬ人に

安積親王も亡くなってしまい
もう頼れる人は光明皇后しかいなくなった。

さあ、どうする聖武天皇

この続きはシリーズの次回にね

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[名僧]井上円了。仏教は哲学だ

名僧シリーズ
明治に入っていっています。

前回、前々回で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の話をしました。
[名僧]明治の廃仏毀釈で寺が絶滅?
[名僧]明治の廃仏毀釈の続き

江戸時代に、檀家制度で国民全員仏教徒となり、仏教は国教化
でも実態は、布教活動の禁止など骨抜き状態

明治になって一転
仏教は散々の目に会います
でも、その政策もうまくいったとは言えず、それほど長い期間は続かなかった。
なんとか乗りきります。

キリスト教もOKになり
仏教各宗派も布教活動をしても良くなった。

ついでに言うと、正式に僧は浄土真宗以外で妻帯が認められていない。
全ての宗派で結婚OKになります。
まあ、誰も守ってはいませんでしたけどね。

いきなり、競争社会になった仏教
鎌倉時代に戻ったとも言えます。
一からです。

よし、ちゃんと仏教というものを見つめ直そう
何人かの人が頑張ります。

そのうちの一人が、井上円了

井上円了
1858~1919年 真宗大谷派(東本願寺)出身

井上円了って、以前2017年の年末に中野区の哲学堂公園に行ったとき、お会いしたんですよね。
哲学堂を作ったのが井上円了
残念ながら、年末すぎてお休みだったので、いつか再度行くぞと思ってから今に至ります。
公園を歩くだけで哲学に浸れるそうなので期待大。

さらに、春日局の墓のある麟祥院(りんしょういん)に行ったときも井上円了の碑があった
二つも出会うと私の中ではもう有名人。

調べてみましょう。

越後で、真宗大谷派(東本願寺)の寺の息子として生まれます。
明治維新の時は10歳
その後、廃仏毀釈の大波が来るので危機感を持ち、猛勉強。
中国の古典や英語を中心に学びます。
その知識を活かして、出来立ての学校なるものの教師になります。

さらに明治10年、20歳の時に、京都へ出て、東本願寺の作った教師学校へ入学。

この時の授業は既に円了にしてみれば物足りないものだったので
東本願寺の募集した、国内留学生というものに応募
入ったのは、東京のこれまた出来立ての東京大学でした。
学費は東本願寺が出してくれます。

なんといっても東京大学
そうそうたる教授陣
最高の学問を追及していきます。
その中でも、のめり込んだのが哲学でした。

哲学なんてものは、それまでの日本には概念すらなかった。
哲学に関する書物は日本には東京大学以外には一冊も無く
東京大学にある書物も日本語のものはひとつもありません。

自分を含めた数人しか知らない、この哲学なる学問
私が世の中に広めなきゃだめでしょう。

東京大学卒業の時
卒業後東本願寺の作った学校の教師になる約束で学費も出してもらった
戻らないとだめなんだけど
一生懸命、東本願寺を説得

私には天から与えられた使命があると分かったんです。

これからの日本に技術は必要でしょう
だが、その基礎に哲学がなければ日本は破滅します。
哲学を学んで分かったことがあります。
私達が慣れ親しんだ仏教の中にこそ哲学はある

卒業2年後、明治20年。30歳にして哲学館という学校を設立します。
30歳で学校設立。ただもんじゃありません。
これが後の東洋大学に発展します。

この場所こそが、先程話した、麟祥院の場所ということです。

書くは書くは
自分で哲学に関する本を実に180冊
日本語で書かれた哲学の本は全部井上円了が書いた180冊だったということです。

名僧シリーズですから、仏教観点から言いますと
早い話が哲学と仏教は一緒
西洋の哲学と東洋の仏教はどういうふうに一緒なのかを理論付けていきます。
物と心とを分けず、ありのままの現実こそが絶対だとする見方
例えば般若心経に『色即是空、空即是色』と書かれているのだと

元気の無くなっていた仏教界を元気付け
多くの議論を生んで、
ここから仏教も理論を伴って再出発だっ

妖怪博士
もうひとつ、円了がのめり込んでいったのが「妖怪」
何でも分類し理論付けちゃうのが大得意な円了先生

古くから全国で伝えられている妖怪の数々

例えば、山道を一人で歩くとキツネに化かされるとか、神隠しに遭うといったこと
単純に迷信だと切り捨てるのではなく
膨大な資料を集めつつ『妖怪学講義』という本にまとめていきます。
人の虚言に起因したり、偶然に起こった出来事を誤って妖怪と認識したりすることを明確にします。

子供たちにも大人気となり、おばけ先生とか妖怪博士と呼ばれるようになります。

講演
47歳で哲学館大学長を辞任
一介の教育者となった円了は、全国各地を回り講演を行ないます。
思いっきり本も書いて、大学で教育もして
それで良さそうなもんですが
彼にしてみると、そんなんじゃなくて、一般のみんなに分かりやすく自分の言葉で伝えなきゃ、それは嘘
なんでしょう。

記録が残る死去前年までのわずか13年間に、全国の市町村の約6割を回り、
5291回もの講演を行っています。

鉄道も道路も発達していない時代状況を考えると驚異的な数字だと言えます。

さらに、「講義録」の郵送により自宅学習できるという現在の通信教育にあたるシステムも開発
伝えたい、という情熱はけた違いです。

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

[吉岡宿の奇跡]8 もはやこれまでか

[吉岡宿の奇跡]1 吉岡宿を救いたい
[吉岡宿の奇跡]2 大きな一歩
[吉岡宿の奇跡]3 せがれの気持ち
[吉岡宿の奇跡]4 金のなる木と熊野牛王符
[吉岡宿の奇跡]5 最大の協力者
[吉岡宿の奇跡]6 平八の暴走
[吉岡宿の奇跡]7 いざ出発
の続きです。

待てど暮らせど
4人で提出した願書
とても感触が良くすぐにでも許可が下りそうに感じた。
少なくとも代官橋本権右衛門はそう言ってくれた。

ところが、待てど暮らせど返答がない
役所というものは、ありふれた願書の決裁は早い。
が、前例のないものは絶望的に遅い

それにしても

とうとう年を越してしまい
正月八日
突然だった。

急ぎこられたし
大肝煎り、同志のひとり千坂仲内から菅原屋に連絡が入った。

開口一番
気の毒千万なことである

体が硬直した。

願書は、付け書きがついて、返されてきてしもうた

返されてきたのですか
・・・

その付け書きをお見せ願えませんでしょうか

「吟味なされがたく候」
その一言があった。

審議しにくい、ということ

「右の趣をもって、首尾あるべく候」

これにておしまい、ということ

こんなひどい話はない
理由すら書いてくれない

これまでどれだけみんなで切り詰めて
店は傾いて
それでも一縷の望みをかけて
吉岡宿のみんながひとつになって

難しいのは最初から分かっていた。
せめて理由を聞きたい
悔しすぎる
このために二ヶ月待たせたのか

ただ
菅原屋が不思議な言い方をした

なんのわけもなく返されたのは
われわれの心底をとくと見極めようという
おかみの思し召しではあるまいか

江戸の民衆とは不思議なもの
お上に恨みがましい思いを抱かない
まことに純真な気持ちを持っていたと言える

千坂は驚いた

なるほど、そうかも知れぬが
われわれは殿様にご苦労な願いを出してしまったのではないか

千坂は身分は百姓だが大肝煎り
この中では、一番お上に近いところにいる
今までは思いをひとつに頑張って来たけれど
こんなに明確に断られた
良く頑張った
もう諦めよう

そんな気持ちがありありだった。

菅原屋が激昂した

千坂様はこの願書を打ち捨てよ、といわれるか
どちらの方を向いてお仕事をなさるおつもりか

浅野野は亡き父の代から、銭を一文ずつためて、この嘆願にかけている
女中までそうしている

長い時間、訴え続けた
とうとう夜が開けた

千坂は根負けした

わかった

千坂はこういった

理由もなく返されてきたのは不幸中の幸いかも知らん
お上はこうだからだめだとはっきり言っておらん。
見込みはある
やってみよう。

再度の提出が決まった。

善後策が練られた
やはり他の七人には知らせない方が良かろう
半年ほど経って、再度提出しよう。

菅原屋はすぐに十三郎の顔が浮かんだ
半年もの間、黙っているなんてとても出来ない。

発覚
やはり無理だった

4月になって、仲間の一人があまりに遅いと役所に詰め寄り
既に却下されていることを知ってしまった。

十三郎は他の六人と千坂家に押しかけた

なぜ却下されたと知らせてくれなかったのですか
あまりに心底が奥ゆかし過ぎませぬか

本来なら怒鳴り付ける場面
十三郎はことごとく人が良い

秘策がある。
われわれ二人に任せてくださらんか

秘策とは何だ!

たたみかけるものがいた

このままでは罵りあいになると感じた十三郎が
お二人がそう言われるなら私はそれを信じて待とうと思う

その一言で、他の仲間がぴたっと静かになった。

十三郎がいかにみんなに信頼されているかということだろう

秘策
秘策なんてものはないのだけれど
そう言った以上、なんとしても考えねばならぬ
仲間に対して嘘はつけない
そういう仲間であるはず

やはり代官の橋本右衛門に頼るしかなかろう
再度お会いして、どうすればいいかの助言をいただく。

本来なら、弁の立つ菅原屋が行くべきだが
代官に会える身分は千坂しかいない。

大丈夫だろうか
自分でもそう思ったが自分を奮い立たせて代官の元へ向かった。

橋本の前で、本来無口な千坂は一世一代の大演説を始めた。

世を明かしたあの日の菅原屋が乗り移ったようだった。

あまりに吉岡の民が哀れではございませぬか

もう何年も前のことになりますが、甚内という男がおりますが
この男はひとつの夢を抱いたのです。
そしてこんなことを始めました。
毎日毎日自分の食べるものを削って一枚二枚と銭を壺に蓄え始めたのです。
その意味を誰も分かりませんでした。
ケチな奴と馬鹿にするものもおりました
ところがその甚内が死の床につくに及んで、謎が解けたのです。
息子の手を握りこう言いました。
わしには夢があった。
銭を積み立ててお上に献上し
その代わり、未来永劫吉岡宿を伝馬の苦役から救ってくだされと願い出ることじゃ
どうかお前がこの願いを引き継いでくれないか
そういって息を引き取りました。
息子は父の名甚内をそのまま名乗り、またこつこつと銭を貯め始めました
毎日毎日何十年もです。
普通なら家のものが反対しそうなものですが
女たちまでもが銭を貯め始めました。
この思いは、今、吉岡宿全体に広がっています。
ひとりずつ仲間が増えていって
ようやく出来たのが先の嘆願書でした
残念で
残念でなりません。

千坂、ちょっと待て
さすれば、この一件は、そのほうらがこたび始めて思い立ったことではないと言うのか

はい、さようにございます。

それほどまでに深切の儀であったか

天を仰いでため息をついた。

これからわしは仙台に行く。

代官は小役人に過ぎない
その小役人が藩の重役が決めたことを覆すために仙台まで行くと行っている

実は裏があったのじゃ。

橋本は却下された原因を独自に調べていた。

この続きはシリーズの次回ね

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