法然は、悪党の息子。

名僧シリーズ

鎌倉時代に入っていきます。

今までのところをまとめておきましょう。

仏教は、十三宗と言われています。
奈良時代から続いている宗派に華厳宗・法相宗・律宗。
法相宗は、孫悟空の友達の道昭
律宗は、中国からわざわざ来てくれた鑑真です。

平安時代は、出たっ 天台宗・真言宗、そして融通念仏宗がある。
天台宗は最澄、真言宗は空海でしたね。
融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)については、良忍という人が始めるんですが
念仏というのをどうとらえるかなんで、このあとの浄土宗での説明に譲ります。

そして、鎌倉時代です。
浄土宗・浄土真宗・日蓮宗、時宗・臨済宗・曹洞宗

最後の江戸時代には黄檗宗(おうばくしゅう)が開かれる。

こうしてみると、十三宗のうち六宗が鎌倉時代ですから
いかに大きく華開いたが分かります。
まずは、その筆頭、浄土宗を作った法然から。

法然
梅原猛さんの「法然、親鸞、一遍」という本を読みました。
ものすごい数の古文書に当たっていて
通り一辺の解釈ではない独自の解釈をされていました。

一般的にはこう
法然上人の父親は美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるまのときくに)という人ですが、
上人が九歳の時に夜討ちにあって殺されてしまいます
その時、勇敢に立ち向かった法然少年は、犯人の目玉を射抜きます。
親を失った法然少年は出家し、数々の奇跡を呼んでいく。
四十八巻伝という本を元にしているとこうなります。

宗教の特定の宗派の開祖なわけですから、多少の奇跡話は付き物です。
ただ、もう少し事実に近いであろう書物も残されていて
それによると、親が夜討ちにあって殺されてしまうのは一緒でも
時期の前後関係が違う。

10歳で親が存命のうちに出家
その才能を見出だされ、当時の仏教界でのエリート集団、比叡山に推挙される。
15歳の時
比叡山に行くことを報告に行ったとき、父親に言われる

私には敵がいる
もうすぐ殺されるかも知れないので
その時は比叡山のどこかに葬って欲しい

予言のような遺言のような。
そして、その通りになってしまう。

実は、両親は、悪党と呼ばれていた集団に所属していた。
反政府勢力
今、我々が受ける言葉のイメージとは違うでしょう。
所属していた悪党が、テロリスト的なのかとか、犯罪的な事を行っていたかとかは
資料がなくて分からないのだけど
命が狙われていて、その通り殺されてしまった事は確か。

おそらく、真相は法然少年自体にも分からなかっただろう
資料からは分からないが、おそらく母親も一緒に殺された筈

人生観が変わるほどのショック
そりゃそうでしょう。
両親が殺されて、
ひょっとして、殺されてしかるべきような事をしていたのかも知れない。

私はこのまま比叡山にいることはできない。
父母の菩提を弔いながら
遁世の人(乞食僧。托鉢をしながら各地を巡り歩く)として人生を送ろう

師である叡空(えいくう)の言葉で思い止まります。

例え遁世の道に出ることが必要だとしても
まだその年齢であれば学問を身に付けるべき
そうすると、本当に自分が何をすべきか判断できる能力が身に付くから
それからになさい。

そこから、猛勉強が始まります。
誰も不可能なほどの書物やお経を読み
考え続けます。

両親は救われるべきなのだろうか
阿弥陀様は救ってくれるのだろうか
両親が救ってもらえるとしたら
どうすれば良いのだろうか

生涯自分に問い続け
それを形にしていく
それが、生きる意味だったのでしょう。

出された結論

悪人でも救われる筈
弟子の親鸞(しんらん)とともに作り上げた悪人正機説
親鸞も背負っているのがありましたので。

エリートにしか出来そうもない観念念仏(かんねんねんぶつ)という方法論ではなく
南無阿弥陀仏と唱えるだけの、口称念仏(くしょうねんぶつ)という方法を全面的に押し出した事

口称念仏自体は、空也も源信も言っているし
観念念仏の補助的な方法論としては古くから用いられている。

でも、法然は悩み苦しみ
自分自身が答えを求める過程で出てきたものだから
庶民の心を打ちました。

お偉いお坊さんが、上から目線で行う説教とは訳が違う。
心底、どんな人でも救われなきゃ困る
誰でも出来る方法でなきゃ、ああそうですか、で終わっちゃう
一緒にやりましょう

世の中が変わりました。
庶民が目覚めたのです。

暇なんてあるわけない
そんなに良いことばかりしているわけでもなく
姑に「死んじまえ」とか心のなかで叫んでいる自分にだって
阿弥陀様は救いの手を差しのべてくれるらしい。

難しいことは一切分からないけれど
あの法然さんの言うことなら信じられる。

庶民の心の中に、仏教が広がり
それをきっかけとして、庶民のための鎌倉新仏教が様々な形を取りながら生まれていく。

始まりは、法然の、気持ち、でした。

次回、法然の作った浄土宗のもう少し内容的な事もお話ししますね。

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東京スカイツリーから、錦糸町へ

週末です。
お出掛けです。

今週は簡単に
このあと控えているウォーキングイベントの昼食予約場所を探すくらいにいたしましょう。

東京スカイツリー
ええっと、上野乗り換えか
じゃあ、その一つ次の上野のイベントの昼食場所も行っちゃいましょう。

上野公園ってあんなに人がいっぱいなのに皆さんどこでご飯にするのかなあ
予約取ってくれるところがなくて、結局反対側まで行ってOK

さあ、スカイツリー

いやあ、何度来てもすごいわこれ
こんなもんよう作ったね

ネットで検索すると、観光案内所があるとあった。
行ってみよう。
船の形していて、ローラー滑り台がある

ひっきりなしに子供が滑っていて大人気

大きな凸面鏡もある
何かというと、スカイツリーをバックに自分の写真を撮りたい人用
スカイツリーってでかすぎるから、
スカイツリーバックに写真撮ろうとしても、どうしても入りきらない

賢いね

スカイツリーのすぐ横を流れているのが、北十間川
水が吹き出していて、何だかアート

おおっ。鯉のぼり
すごい数

予約取りも成功したので
ちょっと巡ってみようか

ネットで検索すると川に映った逆さツリーが撮影出来るポイントがあるみたい
行こうとは思ったんだけど、
若干風が強く、川面がさざ波立ってうまく見えそうにない
途中で、
あっここも、映っているぞ
ここだってことにしよう

また、引き返し
スカイツリーに近づく
真下から見上げると、思わず吹き出してしまうほどのすごさ
分かっていても、さっきもそうであっても、また吹き出しちゃうんだから余程です。

帰りは、大横川親水公園を通って錦糸町まで帰る事にしよう

あっ、業平橋だ

とうきょうスカイツリー駅は、業平橋駅と言っていた
在原業平です
ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは 
古代から現代に至るまでで、最も男前です。

伊勢物語の主人公だと言われていて
東下りの章で、京都から関東に下ってきた事になっている。

父方なら平城天皇の孫、母方なら桓武天皇の孫という血筋の良さ
でも政争に敗れて、在原の姓をもらう

自分はもう、京には不要な人間だ、と関東に下ってくる訳です。
はるばる江戸まで来て、大きな川が流れていた

これは何という川じゃ

隅田川と申します。

川って、越える度に都から遠くなる事の証明なので
気持ちの整理がなかなかつかない。

川の渡しが
乗るんですか、乗らないんですか

はい、乗りますけど

あっ、あの鳥、
都では見たことのない鳥だけど
何と言うのじゃ

都鳥と申します。
(今のユリカモメです)

おおっ、都鳥とな

名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

(都からここまで、飛んできたのだろうか。そのような名がついているのなら、訪ねてみたい、都鳥よ
私の想っている人は、今も生きておろうか、いや亡くなってしまっていようか)

ということで、
ここは業平橋で
隅田川には、言問橋もあります。

大横川親水公園です

家康が、本所地域に縦横に巡らせた、運河
南北方向が横川
東西方向が竪川(たてかわ=縦)
今は、地図が北が上なので逆のイメージですが
江戸城から見ると、横は南北

江戸城寄りの大きな横川が大横川、その次の大きいのが横十間川
大横川は、大活躍しましたが、
低い地域なので、洪水の心配とかもあり、竪川より北側は埋め立てられちゃいました。

でも、大横川の跡は残したいよね、ということで
公園になった。
水の流れる親水公園

長い長い公園です。
あんまり長いのでいくつかのゾーンに分かれるんだけど
それぞれのゾーンで趣が違う。


吊り橋があったり

こんなワイルドな感じもあり



桜越しのスカイツリー

菖蒲園だろうか


この四角いのも良いなあ

最後は、おそらく噴水とかも出る近代的な感じ

親子3人で来ていた幸せそうなファミリー

3~4歳くらいの小さな坊や
お父さんとお母さんが物陰に隠れてちょっと意地悪
みるみる顔が曇っていって
ばあっ
大喜び

公園ってこういう若いファミリーの幸せそうな様子が大好き
こっちも幸せな気分になります。

最後は錦糸町駅前のでっかいオブジェ越しのスカイツリーです

どこ行こう、そうだ!おでかけマップ

[赤穂浪士]6 大高源吾は有名芸能人

赤穂浪士シリーズ6人目です

大高源吾
表門組 玄関固め 膳番元方・腰物方・金奉行 32歳

有名人という意味では、特に当時は、堀部安兵衛に次ぐ有名人。
俳句で有名なんです。

「子葉(しよう)」という俳号で、本を2冊を出しています。

何と言っても、元禄文化の頃ですから
芭蕉を中心にして、俳句が大フィーバー。

四十七士にも、俳諧三羽がらすといって
「子葉」「涓泉(けんせん)」萱野三平、「竹平(ちくへい)」神崎与五郎

でもやっぱり子葉が有名かな

茶道でも有名で、そんなこんなで人脈が広い。

12月14日に吉良上野介(きらこうずけのすけ)の屋敷でお茶会がある、
という貴重な情報を入手した一人
お茶会の情報なら任せとけ

平安時代から続く名門である大高家に生まれます。
さすが文化人。
おなじ赤穂義士である小野寺幸右衛門とは兄弟で
小野寺十内、岡野金右衛門とは親戚。

神文返し
人間として一味違うので、大石内蔵助からの信頼はとても厚かった。

貝賀弥左衛門とともに、神文返しという重要な役目をおおせつかります。

一旦、赤穂の武士たちは、大石内蔵助の指示に全て従いますという誓約書(神文)を提出しています。

御家再興の道が絶たれた時点で、討ち入りに一本化
となると、完全に自分達は切腹決定になるので、
空気に流されるのではなく本当にやる気のあるものにだけ限定したい。

ひとつ芝居を打ってくれ

内蔵助殿が申すには、御家再興を願っていたけれど完全にその望みは絶たれた。
そこで、計画は取り止める。
それぞれも、勝手次第に致してください。
このため、この神文はお返しします。

その時、なんだとおっ、内蔵助の腑抜けがっ
と怒り出した人にだけ

実はさっきの嘘!
と本当の計画を切り出す。

宝井其角(たからい きかく)という俳句では超有名人と、
討ち入り前日に街で偶然に出会った。

宝井其角
年の瀬や 水の流れと 人の身は

さすがですね。
このクラスになりますと、こんにちは、というかわりに
俳句で話しかけます。

子葉
あしたまたるる その宝船

すかさず大高源吾も下の句で返します。

あれれ、あしたまたるるはまずいんじゃないの?

大高源吾ってそんな繊細な人ではあるんだけど、体は四十七士で一番でかい

吉良上野介の屋敷へ一番乗りしたのは大高源吾です。
塀を乗り越えた。
薙刀(なぎなた)のような長太刀で戦いました。

辞世の句
梅で香む茶屋もあるべし死出の山

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家康14(一旦最終回) 秀吉の秘策とは

本題に入る前に
いやあ、新しいお札の発表がありましたね

嬉しい!
渋沢栄一ファンといたしましては
興奮の日々でございます。
こっちも読んでね
渋沢栄一 その1 クーデター計画
渋沢栄一 その2 パリ万博から諸外国へ
渋沢栄一 その3 日本に帰って見たもの。そして何をしたのか
渋沢栄一 その4 明治新政府はあれもこれも
渋沢栄一 その5 渋沢栄一は魔法使い
渋沢栄一 その6 産業造り、国造り、人造り
渋沢栄一資料館に行ってきました。

そもそも、今のタイプのお札を作ったのは渋沢栄一なので
お札の顔に今までなっていない事自体おかしかったと思います。

さあ、本題
家康13 信雄、何すんねん
の続きになります。

屈せず
織田信雄が秀吉の傘下に入り、勝負あり
勝ち目のなくなった家康は、息子於義丸(おぎまる)を秀吉の養子として人質に出す。

世間的には、秀吉の傘下に入ることを意味するが
大阪へ上洛せず拝謁もしない。
となると、傘下に入ったとは言えない。

手を変え品を変え、上洛を促されるが
ただただ無視。

そうこうしているうちにさらに秀吉の支配地域は広がるばかり。
そんな状態が2年も続きます。

一方、九州では島津が九州を統一しようかという勢い
秀吉としては、島津を討ちに行かねばなりません。
その為には、背後の東海中部五か国の家康に、手を打っておく必要がある。

客観的には、攻め落とす事は可能でしょう
小牧長久手の戦いの時より、さらに大きく差がついちゃっています。

どうする

浜松評定
家康側も、決めないといけません。
何度もそういう状況になりながら、ずっと先送りにしてきた。

家康は、武田信玄や織田信長や豊臣秀吉のように突出したリーダータイプではない。
今までも、自分の独断で決めると言うことをほとんどしていない。

みんなの総意に従う
ずるいと言えばずるいが
生死の問題。
もし、秀吉と戦おうとなれば、今度こそ結果は見えている
玉砕。

家康は、俺のために死んでくれ、とは言えなかった。

浜松評定
方針決定会議
家康はその場で何も言わず黙って聞いていて、出た結論に従う。

今までも、バカヤロウと途中で怒り出して結論をひっくり返す事がなかったので
みんなも安心感がある

とても面白いのが、この最も重要な身内の会議に
関東一円を治める超大国の北条氏に
オブザーバーとして参加してもらったこと。

北条氏は徳川の倍の領地を持ちつつ
隆盛を極めたのは随分前で
今は、老大国と化している

戦をするつもりがあるとは思えないが
秀吉の傘下に入られてしまうと、
その時点で全てが終わってしまうだろう。

さあ、出た結論は?

傘下には入らず

あい分かった。

使者
織田長益、滝川雄利、土方雄久
織田信雄(のぶかつ)の家臣のこの3人が使命を受けて家康説得にあたる

最初こそ歓待したが、
結論を変えるつもりはない

一月のうちに3回も来たもので
わざと鷹狩りに出掛けてしまい、不在とする
でも、鷹狩りの場所にまで追いかけてくる。

この3人は、小牧長久手の戦いまでは同志であり
共に戦った仲間。
家康の事は理解している。
一方で、寝返ったあとは、秀吉に触れることになるが
その人物に惚れ込んでしまっている。

確かに計算して演技するところはあるが
底知れぬ人間的魅力を持っているのだろう。
心の底から二人を結び付けたいと思っている。

何度言われても、行かぬものは行かん

ついつい、言葉をあらげ
言わずとも良いことまで言ってしまう
後で、多少言い過ぎたと後悔はするが
総意は徹底抗戦なのだから仕方ない。

報告
これ以上は無理だろう。

信雄が3人を連れて秀吉のもとに報告に行くが、時間は既に寝る時間
ダメならダメで翌日また来る前提で訪ねる。

案の定なかなか現れないので
やっぱり無理か

でも実は、起きていた
なかなか出ていかなかったのは、考えていたから
取り次ぎの者から聞いたので、駄目だったことは分かっていた。

良い方法が無いものか。

あっ
ひらめいた。
ひらめいたぞ

秀吉でしか思いつかないだろう。

あわてて寝間着のまま、出ていった

信雄殿、良い方法が思い付いたぞ

朝日じゃ

それでも不足というのなら
大政所(おおまんどころ)までつけてもいい

秀吉の氏素姓は厳密には水呑百姓ですらなく、
流浪して縫針を売りあるいたり、
野盗の走りつかいをしたこともあった。
これ以下の階層はあるまいとおもわれるような
最下層の泥の中から這い上がっている

共に苦労した家族に対する思い入れは
通常のそれとは全く異次元のもの

朝日は、秀吉の妹
百姓に嫁いだが
秀吉の義理の弟が百姓という訳にもいかないので侍にしたが
生来臆病なので、どう取り立てようにも何ともならない。

何とこの旦那と離婚させて
朝日姫を、家康に嫁がせるという案

無茶苦茶というか、奇想天外というか、常軌を逸しているというか
秀吉でなければ絶対に思いつかないだろう。

要するに人質なわけですが
人質って、格下が格上に対して、裏切りませんよという意思表示のために差し出すもの
息子於義丸(おぎまる)はその為に差し出したし
家康本人だって、徳川(松平)が弱小であったが故に、人質生活を余儀なくされた。

秀吉はほぼ天下人です。
家康は一地方の覇者でしかない
全くの逆で、こんな話聞いたこともない

確かに家康は、築山殿で懲りたのか、
築山殿亡き後は正室を置いていない。
朝日姫は44歳。
お顔はというと、う~んなんとも

仕方なく受け入れた家康。
これで、秀吉と家康は義理の兄弟ということになります。
秀吉お兄様

それでも、上洛せず。
お兄様への挨拶もいたしません。

さあ、「大政所(おおまんどころ)までつけてもいい」になります。
大政所とは、秀吉のお母さん。
秀吉は世に知れた親孝行
マザコンと言っても良い。
自分が一番大切なもの

朝日姫のお見舞いと称し、人質としてやって来る。

いくら総意があっても、これで上洛しなきゃ人間じゃないでしょう。

結局秀吉にとって、家康って何だったのかなあと思う。
そこまでする相手。
そこまでしたかったんでしょう。
性格は全く逆だったけど
家康の事が好きだったんでしょうね

最後まで、何をしても家康より秀吉の方が少しずつ上を行っていた気がする。
人の命は有限だから、秀吉が死ぬことで、歴史が動いていく訳だけど
二人で一緒に天下を治めることがあったら面白かったろうな、と思う。

司馬遼太郎の「覇王の家」はここから一気に飛んで、家康の最期の時になります。
あれっ、関ヶ原は? 大阪冬の陣、夏の陣は?
司馬遼太郎は、それぞれ別にそのテーマで小説を書いていますので
そちらを読んで、ということなんでしょう。

私も長く書いてきたこのシリーズ、一旦最終回にします。
関ヶ原等の続きは、またの機会に改めまして。

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