[外交]10 負けるとしか思えないのになぜ

外交資料館に行って来ました
[外交]2 条約の改正に頑張る外務大臣たち
[外交]3 日清戦争は朝鮮の内乱?
[外交]4 三国干渉から日露戦争へ
[外交]5 日露戦争から第一次世界大戦へ
[外交]6 第二次世界大戦への背景
[外交]7 15年戦争の始まり。満州事変から
[外交]8 ニ・ニ六事件そして日中戦争
[外交]9 第二次世界大戦から太平洋戦争
の続きです

前回、1939年に、第一次世界大戦が始まってから、1941年末に真珠湾攻撃で日本が太平洋戦争を始めるまでを書きました

でも、やっぱり分かりづらい
負けるとしか思えないのに、なぜアメリカ相手に戦争したのか
当時の人たちはどう考えていたのか

中国
すでに日中戦争をしているというのが大きいと思う
一番広くなった中国内の占領地域はこんなに広い

にも関わらず、日清戦争の時のように「勝ち」にはならない
何故かというと、イギリスとアメリカが中国を支援しているから

中国は課題を抱えていて、中国共産党が勢力を伸ばしてきている
イギリスとアメリカとしては、日本が強くなりすぎては困る、ということに加えて
日本に攻撃された国民政府が弱体化し、中国共産党に取って代わられても困る
ソ連に加えて、共産主義の巨大な国ができるのは何としても避けたい

日本としては、イギリスとアメリカに邪魔させないようにしたい
イギリスはアジアに植民地を持っていて、シンガポールが拠点
そこから、中国に支援の物資を運んでいる
であれば、そのルートを断とうと考える
その間には現在のベトナムあたりの仏印と呼ばれる地域
仏というくらいなので、フランスの植民地

第一次世界大戦で、この時、フランスがドイツに屈服
とすると、ドイツがここを取りに来そうだが
ドイツはヨーロッパで戦争中なのでそれどころじゃない
じゃあ、主人のいない地域を日本が取りに行こうという発想

東亜新秩序と言って、日本が中心になり、朝鮮、満州、中国が協同していこうという発想がさらに広がり
大東亜共栄圏という発想になる
東アジア全体は植民地化されて可哀想なので
日本が救ってあげよう、と言うんだけど
結局は言葉が違うだけで、日本がフランスに変わって植民地化しようとしている
少なくとも、アメリカはそう捉えた

この時点では、まだソ連もアメリカも参戦していない
三国同盟も、連合国も、国力では拮抗している
圧倒しているのは、ソ連とアメリカ

アメリカと交戦せざるを得なくなることを見越し
ソ連だけは敵に回したくないと、外務大臣の松岡洋右(ようすけ)は
ソ連へ行き、1941年の4月に日ソ不可侵条約を締結してくる

一安心
ところが、ドイツが急にソ連へ侵攻
そんなことしたらソ連が敵に回っちゃう

松岡洋右、かくなる上は、ソ連への侵攻を主張
自分で不可侵条約結んできたのに

ここで、意見が2つに割れた
北へ攻めるべきか
南へ攻めるべきか

すでに戦争している日本は、戦争することは前提になってしまっており
このあと、どっちへ広げていくかという議論になる
結局は、松岡洋右は解任され
南への拡大に統一される

そして、その結論は、何度も警告されているアメリカを怒らせることになる
アメリカとしては、中国へ資金援助するも
武器は中国に輸出していなかった
アメリカもできれば戦争は避けたいため、その一線は守っていた
ところがいよいよ、中国に武器を輸出するよう方針転換
開戦は秒読みの情勢になってきた

先程のグラフでも分かるように
この時点ではアメリカは参戦していないため、
それほど真剣に武器を作っている訳じゃない
圧倒的な国力の差もこの時点で、軍事力の差として現れてきていない
アメリカが本気になれば、桁が違う差が生まれるだろうが
(実際に桁が違った)
短期決戦なら勝てる
軍部はそう考えた
圧倒的な国力を持ちつつ、短期で降伏するはずはないと思うが
「短期決戦で勝てるから」と天皇を説得
そこでは、ドイツが、イギリスに勝ち、それを見たアメリカに厭戦気分が強まるから、という他者頼みの机上の空論が積み重ねて説明された
そのための奇襲作戦を準備

アメリカとの国力の差は
開戦時の国民総生産でいえば、アメリカは日本の12倍、
すべての重化学工業・軍需産業の基礎となる鋼材は日本の17倍、
自動車保有台数にいたっては日本の160倍、石油は日本の721倍もあった

「勝てる訳ない」ので、国民にはこの差は知らされなかったかと思いきや
むしろこのことが宣伝された
強いものに立ち向かっていくことこそが大和魂(やまとだましい)なのだと鼓舞された。

一部の有識者の中では
中国や仏印への侵攻は評判が良くなかったが
アメリカへの開戦はむしろ歓迎された
仏印等は弱いものいじめしているようで嫌だったが
こちらは弱いものいじめされた日本がやってやるんだ!と

残っている日記とかを見ると、当時の一般庶民の感覚も似たものがある
いよいよ、正義の戦いが始まるのだと

日清日露を経験し
すでに日中戦争をしてしまっている段階での国民感情は
勝ちさえすれば全てが報われる、だったんだろう

強いものに立ち向っていくヒーローを気持ちとして共有し
「団結すれば勝てる」だったんだろう

私の考えを言いたい
勝てば良い、負ければ良くない、ではない
戦争自体、絶対やってはいけないことだと思う

戦争でいっぱい日本人は亡くなった
原爆を落とされ、甚大な被害を受けた
どこかで、「日本は被害者」的意識がある気がする

いっぱい外国人を殺している
やはり経緯からして、日本は「侵略」しようとしたと思う
色んな大義名分を掲げて行われるのが戦争
もっと日本人は反省すべし、と言いたいんじゃない
そういうのが戦争なのだから
殺したから、殺されたから、じゃなく
戦争自体がやっちゃいけない事なんだと思う

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[英語] 英検3級面接試験。ひょっとするとだめかも

昨日、英検3級の2次試験(面接試験)を受けてきました

傾向と対策も随分やって、よし頑張るぞ!

試験会場は、所沢の中学校
2次試験は年齢によって、A日程とB日程に分かれます
A日程は21歳以上なので小学生たちはいません
言ってみると、大人は私ともうひとりだけ
おそらく団体受験もこちらに相乗りの気がする
他はほぼ全員中学生で、みんな顔見知りっぽかったから
同じ中学生かも

午後だったけど、朝早くから行って場所確認
午前の人たちが入っていくところも確認

一旦、カフェで裏技動画を何度も見て復習
問題に入る前のやり取り練習しとくの忘れていたのに気づき
おお、危なかった
入る前にノックして
May I come in?
等々
よし覚えたぞ

会場に戻りました
先着順でやってくれるから、一番最初でした。

問題までの流れは想定通り

カードのそこそこ長文の読み上げも
発音はそれほど気にしなくて良いらしいから
特に知らない単語も無かったしOKだと思う

さあ1問目
裏技動画さんありがとう
完璧に当たり
,soがあれば、「why」で聞かれ、soの前の文をBecause they で始めて読み上げれば正解
何が書いてあったかまでは分からなかったけど、おそらくバッチリ

2問目
絵を見て答える問題
これも裏技通り
人の人数を答える
大丈夫だと思う

3問目
これもズバリ的中
女性が何をやっているか答える
大丈夫だと思う

さあ、問題はここから
4問目
自分の経験や好みについての質問
答えは、I walk around the park.
に決めてあります
時制によって色々言い換えるように練習してある
いついつ何をしましたか、的な質問
何をしましたか、以外にはいつ寝ましたか、や、いつ起きましたか、もある

残念!
聞き取れなかった
どうも練習したパターンじゃない気がする
そういう時は、自然な流れなら
I beg your pardon?(もう一度よろしいですか) と聞き返しても良い事になっている
自然な流れって何かというと、考え込んじゃったあととかじゃなく
すぐに、すみません聞き取れなかったので、っ感じの聞き返し

いかん
考え込んじゃった
もう、pardon言えない
stady と English があった気がする
時間聞かれてる?
ああ、もうタイムオーバーだあきらめよう
用意していた、昨日10時に寝ました、をアレンジして
10時に英語の勉強しました、にするか
〜〜 at 10
どう考えても、at 10 はおかしいけどね

明らかに試験官の表情が曇った
こいつ何言ってるんだ、みたいな
残念、この第4問は0点

最後の5問は
質問されて
YesかNoで答える
Yesの方が楽なので、Yesと答えるように決めているんだけど
そうすると
Please tell me more (もう少し教えて)が来て
もう少し情報を加えて答える

一番多いのが、◯◯に行ったことがありますか、って質問
Please tell me more のあとは
I like ◯◯ Because it’s fun.
っていう感じのを数パターン準備しておいた

やられたっ
これも聞き取れなかった
ここで大きな後悔なんだけど
第4問目pardon? を言うチャンスを失って大失敗したわけだから
気持ちを切り替えて、pardon? を言うべきだった

一番多いパターンの行ったことがありますかのように聞こえたんです

いずれにしても、最初の返答は決めてある訳だから、Yesと答えちゃった
Yesと答えたのに、そのあとにpardon? は自然な流れじゃない
肝心の〇〇は何だったんだろう
仕方ないあきらめよう
準備していたやつ

I like museum because it’s fun.

試験官の表情がまた曇った
しばし試験官が沈黙しちゃった
困ったなあ、この人助けてあげたいけど、ここで助け舟出すと公平じゃないしなあ、って考えてる感じがした

カードを返すやり取りが行われ、会場を退席

やってもうたぁ

とはいえね
6割で合格なんだし
読み上げのところも点数あるし
ギリギリ合格してるんじゃないかという気もする

7月22日、合格発表
祈るような気持ちで待つことにします

[英語]シリーズはこちら(少し下げてね)

[旅行] 全国橋巡り。東日本編

[旅行] 全国温泉巡り。東日本編
[旅行] 全国温泉巡り。中部西日本編
[旅行] 全国渓谷巡り。東日本編
[旅行] 全国渓谷巡り。中部近畿編
[旅行] 全国渓谷巡り。中国四国九州編
[旅行] 全国城巡り。国宝重要文化財編
[旅行] 全国城巡り。国宝重要文化財以外
[旅行] 全国洞窟巡り。
[旅行] 全国海岸巡り。西日本編
[旅行] 全国滝巡り。東日本編
[旅行] 全国滝巡り。西日本編
[旅行] 全国陶磁器巡り。六古窯その1
[旅行] 全国陶磁器巡り。六古窯その2
[旅行] 全国陶磁器巡り。美濃焼は陶器界の革命児
[旅行] 全国陶磁器巡り。あれこれ東日本編
[旅行] 全国陶磁器巡り。あれこれ西日本編
の続きです

今度は全国橋巡りとまいりましょう

北海道
■タウシュベツ川橋梁
元々は、日本国有鉄道士幌線に十勝三股駅まで開通した際に、音更川の支流であるタウシュベツ川に架けられた橋梁。
その後、音更川での水力発電を目的とした糠平ダムの建設により、水没が決定
1955年(昭和30年)に廃線となり役目を終えることとなった。そ
橋梁上の線路は撤去されたものの、橋梁自体は湖の中に残されることとなった
糠平湖に橋梁全体が水没してしまう時期もあれば、
水位が低くなって橋梁全体が見渡せる時期もある「幻の橋」
おそらくもうすぐ崩れるので、見るなら今のうち


東北
青森
■鶴の舞橋
鶴の舞橋は、日本最古の技術を駆使して、3年の歳月をかけて造られた日本一長い木造の三連太鼓橋です。
まるで鶴が羽を広げたように見えることから「鶴の舞橋」と命名されました

岩手
■遠野めがね橋

ライトアップされます

関東
茨城
■竜神大吊橋
竜神大吊橋』は、竜神渓谷の下流部『竜神ダム湖』に架かる全長375メートルの橋。1994(平成6)年の開通から12年間、歩行者専用の吊橋として日本一の長さでした。(現在は第三位)

雲海

灯籠

バンジージャンプもできます

栃木
■回顧(みかえり)の吊り橋

■もみじ谷大吊橋

中部
山梨
■猿橋
日本三大奇橋の一つ
桂川に架かる木橋、橋脚を使わずに両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支える。
たくさんの猿がつながりあって対岸へ渡る様子からヒントを得た


■清里 東沢大橋

静岡
■島田市 蓬莱橋
世界一長い木造歩道橋

■三島スカイウォーク
正式名称は「箱根西麓・三島大吊橋」
2025年3月というからちょっと前まで日本一の長さの人道吊橋だった
何といっても富士山を眺められる絶景

■寸又峡夢の吊橋
大間ダム湖はエメラルドグリーンの湖面
その上を歩く絶景の吊橋

続きはシリーズの次回

[旅行]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] 天下分け目の関ヶ原

ことば日本史からのシリーズ
戦国時代の最後です
締めくくりはやっぱりこれ

天下分け目の関ヶ原
慶長三年(1598)、豊臣秀吉が亡くなると、
遺言にしたがって、政権は、徳川家康を筆頭とする五大老と、石田三成を筆頭とする五奉行によって運営されることになった。
秀吉は死の前に五大老、五奉行に、子息、秀頼にしたがうことを誓わせた。
「くれぐれも秀頼をよろしく」
弱々しく頼む秀吉に、家康は涙ながらに、補佐することを約束していた。
だが慶長四年(1599)正月、はやくも五大老、五奉行の内部に対立が深まり、
さまざまなトラブルを通じて、家康と三成との対立が表面化した。
そのような状況下にあって、家康は秀吉の築いた伏見城本丸に入る。
「天下殿になられ候」
そう評されるような行為だった。

八月を過ぎると、他の四大老はみな帰国し、
家康ひとりが残って大坂城西ノ丸に入り、五大老の権限を一人で振るうようになった。

このとき、会津に帰国した上杉景勝は、城の修築や道路の補修など、領内の整備を進めた。
誰もが、これは戦争の準備であろうと受けとめた。

慶長五年(1600)四月、家康は景勝に使者を派遣して
「上洛せよ」

景勝は、
「上洛しません」
家康は、諸大名を率いて東下し、7月21日、江戸を出陣する。

チャンスと考えたのが石田三成
よし、この隙に。
五大老の一人である毛利輝元を盟主として、家康を糾弾、挙兵した。
伏見城を攻めて近畿をおさえると、さらに濃尾へと進出してゆく。

家康は、24日、下野小山で三成挙兵の報を受け、
8月5日には小山から江戸へ帰った。

東軍につく諸大名の先発隊は、8月中旬には尾張に入り、
23日、木曽川を渡って、西軍の守る岐阜城を攻略した。

9月1日、いよいよ家康が江戸を発つ。
13日には岐阜に入り、翌日、長良川を渡って美濃赤坂で軍議を開き、
「東軍の主力は、三成の近江佐和山城を攻略し、大坂に向かう」という方針を決める。

この動きを察知した西軍は、東軍の進攻を阻止するため、
15日午前一時頃、雨をついて主力を関が原に進出させた。

午前七時過ぎ、戦闘が始まった。

関が原は、東西に四キロ、南北に二キロ程度の小さな盆地である。
そこで、東軍は九万人あまり、西軍は八万あまりという大軍勢が、激突した。

午後二時頃、東軍は勝利した。

その知らせに、各地で行われていた東西諸大名のあいだの戦闘も、
じきに終わった。
天下は、ここに決した。

9月27日、家康は大坂城に入って、戦後処理を始める。
最大の課題は、諸大名の大移封(いほう)だった。

江戸の近くや全国の要地には親藩や譜代大名を置き、
外様(とざま)の有力大名は遠く離れた地方に置くという、
江戸時代の大名配置の基本が、この戦後処理によって、ほぼ完成したのである。
天下はもはや決定的に分けられてしまった。

この戦にちなみ、大きくことが決せられる勝負の意味で
「天下分け目の関が原」、またはたんに「関が原」という。

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