[吉岡宿の奇跡]11 殿のはからい

吉岡宿の奇跡シリーズ最終回です。
[吉岡宿の奇跡]1 吉岡宿を救いたい
[吉岡宿の奇跡]2 大きな一歩
[吉岡宿の奇跡]3 せがれの気持ち
[吉岡宿の奇跡]4 金のなる木と熊野牛王符
[吉岡宿の奇跡]5 最大の協力者
[吉岡宿の奇跡]6 平八の暴走
[吉岡宿の奇跡]7 いざ出発
[吉岡宿の奇跡]8 もはやこれまでか
[吉岡宿の奇跡]9 それはいくらなんでも
[吉岡宿の奇跡]10 さあ、答えは。
の続きです。

朗報
明和9(1772)年7月1日、丑三つ子時(午前3時)
大肝煎、千坂家の家を激しく叩く音。

仙台藩奉行連署の下知状がついに吉岡宿に達せられた。

「吉岡宿より嘆願のおもむきを許可する」

報せを受けた菅原屋は羽が生えたように飛び回り、嘆願仲間全戸の戸を叩いて回った。
たちまち宿場の中に広がり、日が昇る頃には、誰もがこの嬉しい報せに歓喜の声をあげつつ
続々と千坂家に集まってきた。

誰ぞ、おひとり、これを読み上げてくださらぬか
千坂が高々とかかげてそういった。

本来そういう事は千坂の役目だが、千坂自体がその先例をたがえた。

みんなの視線が集まった先は、浅野屋甚内だった。

甚内さん、あんたがこれを読むんだ。

甚内たち浅野屋の一家はこの輝ける一瞬のために生きてきたと言って良い

甚内の朗々とした声が響き渡った

ついに
ついに、彼らの一念がお上をねじ伏せた。

十三郎と菅原屋がこの企てをはじめてから
6年の月日が過ぎていた。

支払い
仙台藩に献上する金千両も無事に納品

ところが、年を越えても利息が支払われない。

督促状を提出し、返事が来た

利息は払う。ただ、来年に支払わせてもらえまいか

だめだ

再度の督促状

ある意味、痛快
一介の百姓が62万石の大藩相手に、金の取り立てをしている

ようやく支払われた。

萱場杢
これが萱場杢の耳に入った。

無理難題を押し付けてもクリアし、見事に完納
藩が支払いを渋っても粘り強く交渉し、ついに利息を勝ち取った。

百姓にしておくには惜しい連中だ

代官の橋本を呼び、追加の資金をどうして集めたのか聞いてみた

橋本は一家離散を覚悟しつつ、浅野屋の甚内がその多くを引き受けた事を説明

萱場は、嘆願書を出してきた連中、特に甚内に会いたくなった。

それまでの萱場には到底おこりえなかった、いくばくかの好意と敬意が芽生えた。

「嘆願書を出した九人を呼べ。出入司・萱場杢が私宅で直々に対面する。」

吉岡宿では大騒ぎ。
萱場杢は、仙台藩では知らぬものがいないNo.2

いったい全体、本当のお達しなのか
とても気が重いが行かざるを得ない

仙台の萱場の屋敷につくと、本当に萱場杢がいた。

その方ども

9人を見回し、一気に語り始めた
そして甚内の名を口にした。

わけても、遠藤周右衛門祖父甚内の代より、数年心がけ志願の儀、奇特である。
そして、それぞれに褒美の賞金を分け与えた。

しかし、9人の中に甚内の姿はなかった
代理で子の周右衛門がいただけ

9人が去ったあと、代官に聞いた
甚内はいかがした。

足が痛むとかで吉岡におります。

乗り物を使えば参れるものを。

甚内は決して馬にも籠にも乗らぬと聞いております。

浅野屋には家訓となっている「冥加訓(みょうがくん)」という書物がある
人は万物の霊長であるから、牛馬を苦しめ、その背中に乗るような可哀想な事はしてはならぬ
ましてや、籠のように人間が人間を肩に担がれるような事は、絶対にしてはならぬ。

褒美の金封を開いてみると、甚内の代理の子が金三両三分。他は二両二分だった

誰とはなく、
この賞金、宿場の者たちに、全て配ってはどうか
みんなが同意した。

なんとお上から与えられた賞金すら、手渡しで配ってしまった。

その後
安永三年から、吉岡宿では、利息百両がきっちり配られるようになった
そのおかげもあり、吉岡宿は潤い、幕末に至るまで、人口が減ることはなかった。

ただ、やはり十三郎たちには、辛苦が待ち受けていた。
特に浅野屋の甚内・周右衛門親子は大金を使ってしまったが故に、商いが苦しくなった。

ところが浅野屋は、不思議な行動に出た。

浅野屋は酒造の他に、質屋も営んでいたのだが
普通は門前払いにするような極窮人にまで金を貸し始めた。

たいした質草もなく、返すあてもないから、質屋はふつう相手にしてはいけない

飢えに瀕して店にやってくるものたちを丁重に扱い、金を貸し続けた
場合によっては質草を取らなかった。
たちまち、近郷に噂が広がり、貧乏人が群がった。

狂ったか

ところが、展開が変わってきた
どうせ金を借りるなら、浅野屋が良い
と、筋の良い客まで集まりだした
かえって店が繁盛しはじめた。

とうとう、噂が殿様、伊達重村にまで届いた。

甚内とやらに会ってみたい

萱場杢が呼んでも来なかった。

そうなるともう、行くしかない。

御成を強行した。

なぜか、甚内が書にたけていることを知っていた。
席につくなり

何か書いてみよ

驚いたが殿の命令は絶対
懸命に筆を走らせた。

ほおぉ
字を見て感嘆の声をあげ、顔をほころばせた。

では、わしもひとつ、書いてやろう

霜夜
寒月
春風

その方らは酒屋であろう。これをもって酒銘とせよ
そう言い残して去っていった

浅野屋の酒は殿様が名付け親
大変な評判を呼び、酒は飛ぶように売れた。

浅野屋はつぶれずに済み、その後も甚内は、私財を投じ、橋の修理や道の普請を行った。

十三郎は58歳で死んだが、その際、子供たちに言葉を残している

わしのしたことを人前で語ってはならぬ
わが家が善行を施したなどとゆめゆめ思うな。何事もおごらず高ぶらず地道に暮らせ。

代々の子孫たちは本当にそうした
ただ、十三郎の姿を刻んだかわいらしい木像を密かに作り
「お堂っこ様」と呼び、信仰した。
幼い子が悪さをすると、その前に連れていき、
お堂っこ様が見てござるぞ
と言ってたしなめた

十三郎に限らず、金を出した九人は、願書を書く前に念書を提出している

子々孫々にいたるまで、上座に座らない。

本人たちは分かっているだろうが、代々子孫になると分からない
驕り高ぶる気持ちはなくても周りは誉めそやすやもしれない
赤穂浪士のような扱いを受ける可能性がある
そんなときに勘違いしてはならない

振る舞い酒に呼ばれても、町の寄り合いに呼ばれても人より上座に座ってはならない。

九人の子孫に対しては、お堂っこ様のように家訓となって引き継がれていった。

磯田道史先生が、この事実の一部始終を古文書から読み起こし
「無私の日本人」という小説を書いて、世の中に知られることになった
さらに、「殿、利息でござる」という映画にまでなった

磯田道史先生によると、だいたいそうなると、私はその子孫でございます、という人が何人か名乗り出てくるらしい。
ところが今回は見事に一人も名乗り出てくるものがいなかった。

先生が調べて会いに行ったら
やっぱり、家訓があったので名乗り出ませんでしたということだったらしい。

「無私の日本人」に基づいて書いた今回の吉岡宿の奇跡シリーズ
再度強調したいのは、全て実話だということです。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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