[外交]11 太平洋戦争が始まって

外交資料館に行って来ました
[外交]2 条約の改正に頑張る外務大臣たち
[外交]3 日清戦争は朝鮮の内乱?
[外交]4 三国干渉から日露戦争へ
[外交]5 日露戦争から第一次世界大戦へ
[外交]6 第二次世界大戦への背景
[外交]7 15年戦争の始まり。満州事変から
[外交]8 ニ・ニ六事件そして日中戦争
[外交]9 第二次世界大戦から太平洋戦争
[外交]10 負けるとしか思えないのになぜ
の続きです

太平洋戦争
日独伊三国同盟は三国合わせても、連合国には国力が圧倒的に劣る
持久戦で勝ち目がないので、短期決戦で決着をつけようと考える

確かに真珠湾攻撃は意図した結果が得られた
飛行機から爆弾等を落とすには、すぐに迎撃されるから不可能
少し手前で魚雷を落とす方法は、アメリカも認識していた
魚雷は高度100mぐらいで飛ぶ飛行機から落とされると、
ガーッと60mくらい、海面から沈む。
この沈んだときの衝撃で機械が動き、魚雷についたスクリューが回り出して海面近くまで浮上し、あとは定深度6mを保って目標に向かって
ぐんぐん進む
でも、真珠湾は水深が12mしかない浅い湾
その方法は不可能だとアメリカは考えた

海面にそっと落とす訓練を3ヶ月行い、見事成功

ただ、序盤こそ勢いの良かった日本も
時間の問題
1942年のミッドウェイ海戦での完敗が勝敗の分かれ目となる

ところが、香港、フィリピン、シンガポール、ジャワ、ビルマなどへの侵攻の成功から、
日本軍の不敗神話はいまだ健在だった

たとえばニューギニアには第一八軍が送られますが、
10万人いた兵隊のうち9万人が餓えで死にます

おかしい、お父さんから手紙が届かなくなる
あそこのおじさんからもプッツリ連絡が来なくなっている

そんな状況でも、全体としての数字は知らされず
情報は偏ったものばかり
主には、ラジオです
ラジオからは政府に都合のいい情報だけを流せる

では、全くそんな情報ばかりだったのかというと
短波の受信という方法があった
英語の分かり、通信技術を持った一部の国民は、情報を取得できた

そんな中で、終戦を見越した株が値上がりしたりしている

岩手県の死者の統計が残っている
1941年末から1945年8月の4年弱の期間のうち
最後の1年間で9割の戦死者が出ている

もう少し早く判断ができていたなら

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]107 後陽成天皇

天皇シリーズ

[天皇]106 正親町。120年ぶりの譲位
[天皇]106-2 正親町天皇。関白と豊臣姓
の続きです

後陽成(ごようぜい)天皇

正親町天皇は、息子の誠仁親王(さねひとしんのう)に譲位すべく何度も働きかけ、秀吉が了承
準備は着々と進められ、いよいよという時
肝心の誠仁親王が病気で急死した

普通なら諦めるところだが、大スポンサー秀吉がついている。
せっかく準備したので、譲位の相手を誠仁親王からその息子、和仁(かずひと)親王にチェンジ
急死からわずか3ヶ月後には、譲位が成立
後陽成天皇が10歳で即位した

同じ月、秀吉は太政大臣となり、豊臣姓を賜って、豊臣秀吉になる
[天皇]106-2 正親町天皇。関白と豊臣姓
でもお話した通り、秀吉は近衛家の猶子(養子のようなもの)になり、
近衞前久の娘前子(さきこ)が秀吉の娘として後陽成天皇の奥さんになる
即ち、秀吉は天皇の外戚になった

これに先立ち、秀吉は、京都内野に聚楽第(じゅらくだい)を築造
以降、秀吉の本城となる
この聚楽第に、後陽成天皇が、大行列を伴い行幸(ぎょうこう)

この時点では
後陽成天皇の弟、智仁(としひと)親王が、息子がいない秀吉に養子に入って次の関白になることが約束されていた

ところが、秀吉に息子、鶴丸が誕生

後陽成天皇から、
どうぞどうぞ、その次の関白は、秀吉さんの息子さんで良いです
ここに、関白職が、摂関家でなく、豊臣家の世襲となる事が決定
歴史的大転換です

ところが、その鶴丸、3歳にして亡くなってしまう
すぐさま、甥の秀次を養子に迎えて、秀次に関白職を譲る
自分は太閤と呼ばれることになる

天皇側からも、秀吉側からも、お互いに利用価値があったので
うまく行ってはいた

後陽成天皇が成長していくに連れて、時代に自我が芽生えていく
秀吉が朝鮮出兵を始め、朝鮮の使節を伴って参内しようとしたとき
後陽成天皇は拒否する
異国人とは対面しない

秀吉は三国国割(さんごくくにわり)構想として、中国まで支配しようとする
後陽成天皇には「大唐都」すなわち北京に行ってもらう構想

この構想に対して、後陽成天皇はやんわりと返答

高麗国への下向、嶮路波濤をしのかれむ事、無勿体候、諸卒をつかハし候ても、事足るべき哉、且朝家のため、且天下のためかへす発足遠慮可然候、勝を千里に決して、此度の事おもひとまり給候ハゝ、別而悦おほしめし候へく候、猶勅使申候へく候、あなかしく

内容は、
高麗国(朝鮮)への下向は、嶮路波濤を凌がねばならず、勿体ないことである、諸卒を遣わしても事足りるのではないか、朝廷のためにも天下のためにも高麗への発足を思い止まるのがよかろう、勝を千里に決して、このたびのことを思い止まれれば、別して悦ばしく思う、なお勅使が申すであろう

このあとの続きはシリーズの次回

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[縄文]2 ムラづくり

[縄文] 縄文人は生きている
の続きです。

わが東久留米市の小学生たちが、地元で発掘された縄文遺跡(新山遺跡)に触発され、
卒業記念に縄文時代の版画集を、専門家の先生を招いて説明を聞きながら作った
その先生は出来栄えに感激して本にして出版したのが「縄文人は生きている」
その本から引用しつつ、縄文時代についてお話していこうと思います

縄文人の生活の舞台
縄文時代になって、人びとは生活に適した場所に一定の期間住みつき、
定住生活をはじめた

そして、竪穴住居はいくつかが集まって、集落をかたちづくっていた。
今日でいうムラの原形である。
それは時代がくだるにしたがってイエの数を増し、大きなムラとなった。

約2万年前から1万8000年前は、氷河時代最後のたいへん寒い時期であった。
しかし1万年前頃をさかいとして、気候はだんだんと暖かくなってきた。
それとともに、西日本の海岸地帯の落葉広葉樹林(コナラ・クリ・ブナ・トチノキなど)と、
さらにその南からは照葉樹林(シイ・カシ・クスノキ・タブなど)がだんだんとひろがり、
いまから約六〇〇〇年前ごろまでには、落葉広葉樹林は東北地方全域、そして照葉樹林は関東地方までひろがり、今日の日本列島の植生が定着した

縄文人はムラをつくるために、この深い森林を切りひらいた。
そして、日常の生活にかかすことができない燃料や建築材などの木も、
ムラの周囲の森林から切り出したため、そのあとは明るいひらかれた空間となった。
そうした場所をこのむクリやクルミは、二次林として成長したし、
フキ・ウド・ミツバ・ワラビなどの植物も成長することができた。
これらはいずれも、縄文人が重要な食料資源としてきたものである。
定住は縄文人にとって、思いがけない幸をもたらした。

縄文人は川や湖にめんした台地の上にムラをつくり、
ムラの周囲にはひらかれた二次林、そのおくには深い森林があるという風景の場所を、
その生活の舞台としたのである。

ムラづくり
1旅の一行がさしかかる

縄文時代は自然物にたよる採取経済社会であったために、
人口の増加や環境の変化などによって、ムラびとたちの食生活をささえるだけの、自然のめぐみをえられなくなることがたびたびあった。
こうしてムラびとたちは住みなれた場所をはなれて、新しい土地をもとめて旅にでる。

「もうすぐだ、がんばろう」ムラの長の言葉に勇気づけられて、
人びとは一歩一歩大地をふみしめて歩いていく。

縄文時代のムラの移動は、あてもなくさまようような放浪の旅ではない。
日常生活のなかでたまたま狩りに出かけた土地や、
ふだん交流していた遠くのムラも知っていたから、いざムラをはなれる時には、
次の住いの場所はどこがよいかという土地勘は、きっとあったにちがいない。

2川を見つけた

縄文人は川やわき水のある近くにムラをつくって住んだ。

きれいな水はムラびとたちの貴重な飲み水であった。
川には魚もかりよういたが、そこには動物たちも水を飲みにくる。
狩りや漁にとっても格好の場所であった。
「わあ!きれいな水だ。ほら、あそこに魚もいるぞ!」
旅をしてきた人びとはこの土地が気にいった。

3ああおいしい

武蔵野台地は、水の少ない土地だが、標高が50メートルから60メートルのあたりには
たくさんのわき水があり、そこからわいた豊かな水が集まって、いくつもの川が流れている。
そのひとつが黒目川
縄文人もこの水でのどをうるおし、生活をするうえでの貴重な水資源としていた。

4がけのうえにはい上がる

わき水のある川に面した台地のうえは、ムラをつくる場所に適していた。
広い平らなところがあって、日あたりや風とおしがよい
まんがいち、台風や大雨で川があふれても、ムラのなかまで水がはいってくる心配はない。
高台は川に水を飲みにくる動物の動きを知るのにもぐあいがよく、
なによりも見はらしがよかった。

「このうえだ!さあ、のぼろう」

こうして新しいムラの場所にたどりついた一行は、
きれいなわき水と川を見おろす高台によじのぼった。

まだまだ続きます。
この続きはシリーズの次回

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]51 羽田孜。短命内閣に終わるも、まだまだ頑張る

首相シリーズです

羽田孜(はたつとむ)

1992年、竹下派(「経世会」)の会長だった金丸元副総裁が「東京佐川急便事件」で議員辞職したことを契機に、羽田派を結成。
93年、「政治改革法案」をめぐって提出された宮沢喜一内閣の不信任決議案に賛成。
小沢一郎氏らとともに自民党を離れ、新たに新生党を結成し、党首となった。

同じく「新党ブーム」の波に乗った日本新党の細川護煕氏に協力し、非自民連立政権の細川政権の樹立に協力。副総理と外相を兼任した。

首相に
細川総理の突然の辞意表明は、かねてからの連立政権のきしみを一気に増大させてしまった。
小沢一郎新生党代表幹事と市川雄一公明党書記長が与党内を取り仕切るという「一・一ライン」に対する反発から、新党さきがけが最初に連立から離脱。
それでも首相となって、内閣発足という直前
社会党を除外して新生党、日本新党、民社党が
衆議院統一会派である「改新(かいしん)」結成に動いたことから、
社会党も離脱した。

このため、羽田総理は衆議院で多数派をもたない、
少数与党内閣をつくらざるを得なかった。

新生党代表幹事だった小沢一郎氏に対する
「二重権力」「強権手法」といった批判も続く

羽田総理の仕事としては、1994年(平成6)6月25日、
遅れに遅れていた1994年度予算を成立させたこと
社会党に対して連立復帰を働きかけたがうまくいかず、
内閣不信任案の可決が必至となる。

衆議院解散という選択肢もあったが、それだと中選挙区制での選挙となり、
羽田総理は小選挙区制の施行を進める立場上問題だと考え、
予算成立と同じ6月25日に総辞職を表明した。

2番目に短い、短命内閣64日間だった

その後
その後も羽田氏は自民党に代わる新たな政治勢力の結集を訴え、
新進党の結党に参加。
96年には盟友だった小沢氏と袂を分かって新進党を離れ、
新たに太陽党を結成。
1998年1月には太陽党、国民の声、フロム・ファイブの3党で結成された
民政党の代表に就任した。

98年4月、新・民主党の結党に参加。
幹事長や特別代表を歴任し、「党の顔」として
トレードマークである半袖の「省エネルック」で全国を飛び回った。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)