[首相]27-6 東条英機。玉砕。

[首相]27 東条英機。南無阿弥陀仏を20回唱えて寝ているよ
[首相]27-2 東条英機。辞表はどうしましょう。
[首相]27-3 東条英機。生きて虜囚の辱を受けず
[首相]27-4 東条英機。四方の海 みな同胞と 思う世に
[首相]27-5 東条英機。子供のように大粒の涙を流しながら、退出した
の続きです。

1941年12月8日、太平洋戦争開戦。
悲劇の幕が開きます。

東条は首相と陸軍大臣を兼ねてはいるものの
現場での指揮権限はない

戦争が始まったら、戦略、作戦は統帥権を持つ大本営陸軍部(参謀本部)と
大本営海軍部(軍令部)に委ねるしかない

出来ることと言えば
国民を鼓舞する一方で、和平交渉を探るという矛盾した行動のみ

真珠湾攻撃の成功に続き、香港も陥落させた。

1942年が明ける
1/2には、マニラ
2/15には、シンガポール
3/8には、ラングーンを攻略

連勝が続く。

東条はこの時点では、時の英雄として、賛辞の渦の中にあった

米国の反撃
反撃は、4/18から始まる

ドーリットル大佐率いるB25爆撃機での本土爆撃
この時点では、B25が行って帰ってこれる範囲は占領できていないため
空母ホーネットの飛行甲板から発進させ、日本に爆弾を落としたあと、
そのまま日本上空を突っ切って片道飛行し、
友好関係にある中国国民政府の基地に着陸するという奇策だった

やはりちょっと無茶だったようで、ほとんどが成功しなかった。
ただ、これは反撃のきっかけとしては十分

日本まで届くとなると、空母を何とかせねばならん、と
開始されたのがミッドウェー作戦

アメリカには、暗号解読で作戦が筒抜けになっており
完全に失敗
連合艦隊の不敗神話にピリオドが打たれる。

ミッドウェー海戦の勝利で意気あがる米軍は、
8月7日、ソロモン諸島のガダルカナル島に上陸した。
最初こそ日本軍に軍配が上がるが、
作戦上の失敗もあり、上陸を許してしまう。

応援部隊がどんどんつぎ込まれるが
いたずらに犠牲者を増やすだけだった。

東条は前線での苦戦、敗北が伝えられるようになると、
戦争指導のために作戦を遂行する統帥部も掌握しなくてはと考えるようになった。

12月31日、開戦二年目の大晦日に御前会議が開かれた。
統帥部は初めて南太平洋方面での作戦失敗を認め、ガ島奪回作戦の中止を決定した。

1943/2/1 撤退を開始し、7日に完了

劣性は枢軸国全体として顕著になってきた。
ドイツはスターリングラード攻防戦で惨敗

1943/4/18 ブーゲンビル島の上空で山本五十六連合艦隊司令長官が追撃されたとの悲報が入る。

アッツ島
1943/5/12 米軍がアッツ島に上陸
どんどん迫ってきました。

山崎保代部隊長率いる守備隊約2600人はよくもちこたえたが、敗色濃厚
大本営は21日、潜水艦などによって撤収するよう命じたが海軍の協力が得られなかった
救援作戦は中止される

29日、残存兵150人は山崎大佐とともに総突撃した。
全滅
「傷病者は最後の覚悟を決め、非戦闘員たる軍属は各自兵器を取り、
ともに生きて虜囚の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり……」

東条のもとに電文が届く
東条が作り、全兵士に暗記させた「戦陣訓」
その中の「生きて虜囚の辱めを受けず」は
意図がどうあれ、多くの命を「玉砕」へと向かわせた。

これ以降、非戦闘員までも巻き込んだ「玉砕」が相次いでいく

開戦当時のような東条人気はなくなっていた。
生活苦の責任は東条にあると思うようになっていた。

東条内閣の恐怖政治が始まる
反東条は、容赦なく勾引された

11/24 タラウ・マキン両島でも玉砕

1944年が開けた
1/7 ビルマ方面での大攻勢を目指したインパール作戦
最終的に3万人もの犠牲者を出す、悲惨な結果

2/19 内閣改造
その後、参謀総長を兼任したいと申し入れる
これは、現場から猛反対がでる

結局兼任するが、反東条が全体として明確になっていく

そして、6/6がやって来る

サイパン陥落
サイパンは絶対的防衛圏
サイパンがもし陥落すれば
B29が直接日本上空を空爆出来るようになる

サイパンは難攻不落

何の根拠もないが、東条は自信を持っていた。

大激戦が繰り広げられ
結果として、3万人の命が消えた。

東条内閣倒閣の流れは決定的となる

ところが不思議なことに天皇が倒閣に反対する

参謀総長は辞任
内閣改造をして、何とか乗りきろうと考える

ただ、反東条の空気の中で、組閣は難航
どうにもならなくなって覚悟

1944/7/18 東条内閣総辞職。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史]2 えたいが知れないって何が分からないの?

「ことば日本史」からのシリーズ、前回に引き続き、飛鳥・奈良時代です

がらんどう がらんとした
サンスクリットで寺院の敷地をいうサンガーラーマが、
中国で僧伽藍摩(そうぎゃらんま)と音訳され、これが日本で伽藍(がらん)と略され、
奈良時代になって寺院の建造物をさすようになった。

伽藍に関しては、以前寺社建築シリーズの中でお話ししました。
[寺社建築] 寺の建物の名前
大規模な寺院については、備えるべき七種の堂があって、七堂伽藍(しちどうがらん)という
本堂、講堂、塔、僧房、経楼、鐘楼、中門を含む回廊が揃っています。
転じて、大きなお寺の事を七堂伽藍と言ったりもします。

伽藍の中で堂と付く金堂本堂講堂などは、比較的大きな建物

お寺ですから、イベントがなければ通常は静寂に包まれている

広々として静か
「がらんどう」です。

動詞になって「がらんとした」

啖呵を切る

天台宗の教学では、小乗の教えにこだわっている者を叱りつけることを、
「弾呵(だんか)」といった。

時代が巡り、江戸時代。
江戸っ子のまくしたてる言葉の勢いをいうのにも使われるように変化
では、どうしてそれを「切る」というんでしょう

せきをともなう激しい痰を痰火(たんか)といい、そちらを語源とする説もあるので
少なくとも「切る」というのは、痰を切るという表現

そのあたりがぐちゃぐちゃっと混ざり込んだんでしょう
ちなみに、「てやんでい」は「何を言っていやがるのだえ」のなまったもの
「べらぼうめ」の「べらぼう」は穀物を潰す”へら棒”が語源で、
「穀潰し(ごくつぶし)」の意味であるともいいます。

えたいが知れない
僧侶の衣姿を「衣体(えたい)」といい、その衣の色で宗派や格が判別された。

例えば、聖徳太子の冠位十二階ではこんな色

その衣体がはっきりしないと、どういう人かわからない。
ということで生まれた言い回し。

[日本語]シリーズはこちら(少し下げてね)

[三十六歌仙]13 藤原兼輔。紫式部のひぃおじいちゃん

藤原兼輔
みじか夜の ふけゆくままに 高砂の 峰の松風 ふくかとぞきく
(美しい琴の調べを更けゆくほどに聞きほれていると、まるで高砂の峰の松風が吹いているようではないか)

藤原兼輔
兼輔は、藤原氏が摂関家一族として地位と政治力をほぼ独占していた時代に生まれました。
高貴な一族の1人として、兼輔も生涯を通し順調に出世し最終的に中納言となります。

その頃暮らしていた屋敷が鴨川堤にあったため「堤中納言」と呼ばれていました。
屋敷は芸術のサロンとして多くの貴族のたまり場的存在。

紀貫之や凡河内躬恒という超一流の歌人たちと日常的に触れあっていました。
歌の感覚は磨かれるはずです。

古今集(4首)など勅撰歌集に58首が入首されています。

そして、その才能はDNAに乗っかって、受け継がれることになりました。

ひ孫としてあの紫式部が生まれています。

紫式部としても、ひぃおじいちゃんに藤原兼輔がいたのは嬉しかったようです。

「源氏物語」の中に兼輔の歌が引用されています。
それが、冒頭の歌

みじか夜の ふけゆくままに 高砂の 峰の松風 ふくかとぞきく
(美しい琴の調べを更けゆくほどに聞きほれていると、まるで高砂の峰の松風が吹いているようではないか)

琴の名手であった清原深養父の調べを聞き
あまりに美しい音色に感嘆し、全力で讃えた歌です。

当時使われていた琴(きん)は、中国から輸入されて間もない楽器で、
弦の数や奏法、音色ともに現在の箏(こと)とは違うものだったようです。
その琴の音を松風に例える表現も、共に中国から入ってたものでしたが、
芸術の様式として日本でも使われていきました。

松を吹き抜ける風音のような平安の琴はどのような音色だったのでしょうか

古今集にも載っていて、「夏部」の歌とされています。
松風は秋の季語なので、夏から秋にかけてあっという間に更けてゆく
「夜の短さ」を歌った歌でもあります。
ふけゆく、は夜がふけるのと、夏から秋にかけて季節が変わっていく両方を意味しています。

百人一首ではこれ
みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ
(みかの原からわき出て流れるいづみ川の「いつ」ではないが
いつ見た訳でもないのに、なぜあの人がこんなに恋しいのだろうか)

まだ顔を見たことない人に恋しちゃった不思議な歌です。

それでは、もう一首

君がゆく 越のしら山 しらねども 雪のまにまに あとはたづねむ
(あなたの行かれる越の白山はその名の通り「知ら」ないけれども、
雪に積もった足跡をたよりに尋ねて行きましょう)

情景もリズムもとっても気に入りました。

[短歌]シリーズはこちら(少し下げてね)

[北条]9-2 貞時。ヒエーッ。何ともならん

[北条]3 北条泰時。激動から安定へ。御成敗式目でどうだ
[北条]4,5 経時そして時頼
[北条]8 時宗。元がやって来た。ぶえーっ
[北条]8-2 時宗。元がやって来た。こあーっ
[北条]9-1 貞時。神様にも言い分が。
の続きです。

この辺りの時代の事になります。

背景
鎌倉時代の後半、政治がどんどんゴタゴタし
幕府が滅び、新しい時代への入れ替わりが迫ってくる訳ですが
そのゴタゴタに入る前に
なぜ、そうなったかという大きな時代背景を踏まえましょう。

鎌倉時代の後半というこの時期は、
日本の歴史の中でも、特に気候が不安定で
飢饉が何度も起きていた
元寇を退けた暴風雨にしても
実はそんなに珍しいことではなく、
この時期、結構頻繁に起きていたのです。

そんな日本中が疲弊している時期に、追い討ちをかけるように元寇
農民たちはえらく大変な時期だったのです

農民って、絞り取られるだけ絞り取られて可哀想ってイメージですが
実はそんなやわじゃない

荘園制度が複雑化を極め
多重に荘園への権利者が存在

農民たちからすると、払えんもんは払えん
バンバン訴えを起こし
もっと負担を軽減してスッキリさせろと
聞き入れないんだったら、ストライキして、稲は刈りない
おたくとは縁を切って他の荘園主に守ってもらっても良いんですよ

そんな強気に出るためには力が要ります。
「悪党」と呼ばれるどこにも所属しない武装集団が発達し
武力を契約で手に入れられるようになったのです。

そんな不満いっぱいの世の中を背景に、鎌倉時代が崩壊し
新しい時代へと切り替わっていくのです。

平頼綱の政治
平頼綱の政治は7年半続きます。
単なる主導権争いだったので、安達泰盛の路線は引き継がれます。
平頼綱の一番の関心事は自身の権力の強化

将軍は、惟康(これやす)親王
親王って言うくらいですから、天皇の息子
親王宣下を受けているということは、そのあと天皇になる資格を有していることになります。
ところが、1270年に臣籍降下で「源」になっている
源惟康(みなもとのこれやす)
途絶えたはずの源頼朝の家を継承する
源実朝横死以来、51年ぶりで鎌倉に源氏将軍が復活していた

ところが、平頼綱は自分の権力が強力であることを示さんがため
せっかくの源惟康を惟康親王に戻させた

なぜそんなことをしたか
あることの準備

将軍の交替

朝廷は大覚寺統と持明院統が激しく対立している
大覚寺統が天皇であるこの時期に
持明院統の後深草の皇子(伏見の弟)久明親王に肩入れした。

平頼綱は、天皇の補佐である将軍の、そのまた補佐の執権北条貞時の家来に過ぎないのに
朝廷の人事、将軍の人事にまで介入出来るんだぞと。

将軍を久明親王に入れ替えるのです。

貞時
そんな平頼綱を静かに見ていたのが、北条貞時
執権になったときは幼かったので、安達泰盛や平頼綱に中継ぎをしてもらう必要がありましたが
もう24歳になっていた。

そろそろ引っ込んでもらいましょう
平頼綱を討て

平禅門の乱。殺されちゃいます。
それなりに一生懸命頑張ったんだと思いますが
主君に殺されるんじゃ可哀想

はい、私が全部やります。
意欲満々

永仁の徳政令
安達泰盛の作った徳政令という路線を継承しつつ発展

引付衆という裁判担当を解散
全部私が聞いて、白黒判断しましょう。

意欲は買えますが、
やってみると、とても一人でなんとか出来る量ではない

ヒエーッ。何ともならん
引付衆は復活

人事で主要なポストの御家人は全部交替
自分の兄弟やいとこたちで固めます。

ところがそんな事をすると、クビになった人たちが黙っちゃいません。

どんどんイザコザが増えていきます。

そしてとうとう、1302年
抵抗勢力に、周りを固められ、実質敗北
右腕として重用していた宗方に全責任を擦り付ける形にし
宗方を討たせます。
1302年、嘉元の乱

完全に政治に興味を無くし
酒浸りの生活に入っていきます。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)