[家重]5 二人だけの合図

[家重]1 まいまいつぶろと呼ばれた将軍
[家重]2 家重様の目と耳になってはならぬ
[家重]3 どんな駒でも、前に進むことができる
[家重]4 お庭をともに歩きとうございます
の続きです

文(ふみ)
比宮増子(なみのみやますこ)が家重にお庭をともに歩きとうございます、と書いた翌日
昨日の今日で、まだ返事はなかった。

「おいでくださるだろうか」

花壇のそばで比宮がつぶやいたとき、家重と忠光が来るのが見えた。

「比宮から文を貰えるとは。今も懐に入れているのだ」
忠光が家重の後ろからそう伝えた

家重は左のほうの手を袂に入れて、どうにか文を取り出して見せた。
家重の手から文が落ちた。
忠光もあっと思ったが、すぐに比宮がしゃがんで拾い上げた。

「御心が嬉しゅうございます。このように殿のお着物に入れていただけますなら、妾は毎日、殿に文を書いても宜しゅうございますか」

「真実、毎日私に文を書いてくれるのか」

「はい。殿だけにお聞きいただきたいこともございます。
文ならば、殿が一人でごらんくださいますでしょう」

「今からでも明日が待ち遠しゅうございます。」

家重の頬がぼうっと赤くなった。

「増子。もう少しすれば薔薇が咲く」

「ではまたお届けくださいますか」

家重はうなずいて唇を動かした。

「だがな、棘を折っているのはこの忠光だ」

「棘を折るように命じてくださったのは殿でございましょう」

比宮はそっと家重の左の手を取った。

「信じても宜しゅうございますか」

家重がきゅっと比宮の手を握り返した。

比宮が文に書いた二人だけの合図
はい、なら一度、いいえ、なら二度握り返す

「お届けくださった薔薇を、御披露目の後から粗末にしてしまいました。
さぞお腹立ちでございましたでしょう。
許してくださいますか」

家重は一度も、握り返さない。
比宮は戸惑って家重の顔を覗き込んだ。

「もとから腹を立ててはおらぬ。それゆえ、許すも許さぬもない」
忠光が言った。家重の思いがこもったような、穏やかな声だった。

「では、お悲しませしたでしょうか」

「ああ、ふむ」

今度は一度、うなずくかわりに比宮の手を握り返した。

「ならば、どうかそのことを許してくださいませ」
家重は静かに比宮の手を握りしめた。

次の日も比宮と家重は御庭を歩いた。
比宮が家重のそばに駆け寄ると、家重は黙って比宮に手を差し伸べた。

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[ことば日本史] 伊達(だて)

ことば日本史、戦国時代から

伊達政宗
米沢を本拠にしていた戦国大名、伊達政宗は、
天正十七年(一五八九)、会津の名門、 蘆名(あしな)氏を破り、
領土を大きく広げて、全国でも有数の大大名となった。

だが蘆名氏と戦ったことは、豊臣秀吉によって禁じられていた私戦であり、
勝手に会津を領したことは、秀吉の怒りをかった。

「ただちに上洛せよ」
という秀吉の使いがやってきた。

迷った末に、政宗は小田原攻めの途中だった秀吉のもとへ向かう。

そのとき政宗は、鎧のうえに真っ白な麻の陣羽織を着て、
髪を茶筅結びさえできないくらい短く切っていた。

喪服仕立てで死の覚悟を示して見せたのだ。

だが秀吉は、会うことも許さず、政宗を箱根の底倉に押し込め、
前田利長らに詰問責めにさせた。

押し込められた政宗は、
秀吉とともに千利休が小田原に来ていると聞いて、茶の稽古を所望する。

それを聞いた秀吉は政宗を見直し、面会を許したという。

政宗は、蘆名氏領を没収されただけで、米沢に戻ることができた。

このエピソードにうかがわれるように、
政宗は派手なパフォーマンスで人目を引くことが多かった。

文禄元年(一五九二)、秀吉が朝鮮への出兵を命じたときには、
割り当てられた出兵員数が千五百人であったにもかかわらず、
三千人の軍勢をひきいて出陣した。
しかも、紺地に金の日の丸を入れた幟を三十本も立てて、
美しい馬にかけた黒母衣には金の半月印をつけ、
兵士らは豹、虎、熊の皮、あるいは孔雀の尾羽を飾り、
黄金でのしづけした太刀をはくという、ひときわ目立つ装束で飾っていた。

京の見物人たちは、驚き、感心する声をあげたという。

また政宗は、「鄙(ひな)の華人」と呼ばれるほど、
文芸、芸道に深く通じており、とりわけ茶道に精進していた。
だから派手というだけでなく、センスもよかったのである。

そこで、この伊達政宗のダンディズムにちなんで、
江戸時代には華美な風俗を伊達風というようになったという。

実際には、伊達政宗がいた時代よりも古くから、
ダテという言葉は使われているので、
元々の語源が政宗ということではない。
心を立て通し強く意気地を張るという意味の
「たてだてしい」が略されたものであろうという。

ただそこに、伊達政宗の印象や伝聞が、
加わっていったのだと思われる

もっとも今では、見栄を張っただけのおしゃれのことや、
「ダテめがね」「ダテじゃない」などというように、
実質をともなわないという意味で使われるようになった。

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[外交]9 第二次世界大戦から太平洋戦争

外交資料館に行って来ました
[外交]2 条約の改正に頑張る外務大臣たち
[外交]3 日清戦争は朝鮮の内乱?
[外交]4 三国干渉から日露戦争へ
[外交]5 日露戦争から第一次世界大戦へ
[外交]6 第二次世界大戦への背景
[外交]7 15年戦争の始まり。満州事変から
[外交]8 ニ・ニ六事件そして日中戦争
の続きです

アメリカからの圧力
1939年になると色んな事がおきてきます

日本にとって当時アメリカは重要な貿易相手国
中国の味方になったアメリカは日本に圧力をかけてきます

中国への攻撃を止めないと、日米通商航海条約を破棄するぞ

折れる訳には行かないと攻撃は止めない

そんな中、ドイツとロシアの間で、独ソ不可侵条約が締結されます
日本からするととても変
その前に、共産主義(ロシアなど)に対抗しようと日独防共協定を結んだはず

ドイツとしては、イギリスやフランスと戦争を始めるための準備
ロシアに敵に回られると辛い

その直後でした
第二次世界大戦勃発

ドイツがオーストリアを併合、チェコスロバキアに進出
そしてポーランド侵攻

対するイギリスとフランスがドイツに宣戦布告

ドイツはパリを陥落

この時点での内閣、阿部信行内閣や米内光政内閣は
ヨーロッパの戦争に不介入の政策を取ります

アメリカから圧力がかかっているこの状態で、ドイツに味方すると
完全にアメリカを敵に回すことになる

でもやっぱり、1940年
日米通商航海条約が破棄されてしまう

ここでまた近衛文麿内閣になる
日米交渉をしながら、日米開戦になったときも見据えるという両にらみ政策

日本とアメリカの経済力の差は明らか
開戦して勝てるかシミュレーションしてみよ
と命じられた役人達は、負けるとは思いつつもそう言えない
不思議な数字を叩き出した

アジアが日本に味方して一体としての経済圏を作れるので勝てる

東亜新秩序で日本・中国・台湾・満洲が一体化した構想の拡大版
アメリカからの資源がストップし、石油等が輸入できない
アジアの資源をあてにする

そのため北部仏印(ベトナム北部)へ進出
東南アジア全部を準日本と考える都合の良い考え方

アメリカが日中戦争の相手中国へ支援するルートを寸断する狙いもある

さらに南部仏印(ベトナム南部、ラオス、カンボジア)まで進んだことで
完全にアメリカを怒らせてしまった

この時、日独伊三国同盟が結ばれる
それまでは日独伊防共協定でロシアが仮想敵国
でも、ドイツはロシアと不可侵条約を結んでいるから
実質ロシアは仮想敵国ではなくなっている
仮想敵国はアメリカに変わったんです

日本も、ロシアと不可侵条約を結んで置かなければ怖いと
松岡洋右がロシアに行って日ソ中立条約を結んでくる

首相は東條英機に変わる
本来開戦論だった東條英機も
天皇から、あくまでも日米交渉を優先すべしと言われたので
交渉をしようとする

ところがその交渉で、アメリカから最後通牒を突きつけられる
ハル・ノート

満洲事変の前の状態に戻さなければ、開戦だぞ

やられる前に
と先制攻撃
1941年
真珠湾攻撃です

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[旅行] 全国陶磁器巡り。あれこれ西日本編

[旅行] 全国温泉巡り。東日本編
[旅行] 全国温泉巡り。中部西日本編
[旅行] 全国渓谷巡り。東日本編
[旅行] 全国渓谷巡り。中部近畿編
[旅行] 全国渓谷巡り。中国四国九州編
[旅行] 全国城巡り。国宝重要文化財編
[旅行] 全国城巡り。国宝重要文化財以外
[旅行] 全国洞窟巡り。
[旅行] 全国海岸巡り。西日本編
[旅行] 全国滝巡り。東日本編
[旅行] 全国滝巡り。西日本編
[旅行] 全国陶磁器巡り。六古窯その1
[旅行] 全国陶磁器巡り。六古窯その2
[旅行] 全国陶磁器巡り。美濃焼は陶器界の革命児
[旅行] 全国陶磁器巡り。あれこれ東日本編
の続きです

萬古焼

三重県です
この前、お伊勢さんに行ったときありました。
陶器と磁器の違いは説明しましたが
ここはそのあいの子、炻器(せっき)というジャンルになります
熱にめっぽう強い
従って、急須や土鍋が大得意
特に土鍋は、8割のシェア
パン粉を焼くのはグラタンね

出石焼(いずしやき)
出たっ、わが兵庫県


兵庫県の日本海側の富岡市
最初、陶器で始まったものの、伊万里から磁器の技術を持ち帰って磁器に転じます
ただ、伊万里の亜流に過ぎず、鳴かず飛ばずが続いていた
明治になって、「盈進社」が登場し革命を起こします
白すぎる白!
その美しさが称賛を浴び一躍全国的に有名になります

出石そばもこの出石焼のお皿に乗ってきます

赤膚焼
奈良県です

最初は赤い土に特徴があり、赤っぽい焼き物だったのですが
次第に幅広く色んな焼き物に広がっていき
今では特徴がないのが特徴

大谷焼
徳島県です

茶色い色が特徴
日常使いの身近な陶器が多い

砥部焼(とべやき)

愛媛県砥部町
こちらも磁器です。
砥部町の砥は砥石の砥ですから砥石の産地
砥石を作った後のくずが悩みの種だった
ある時、このクズが磁器を作るのに良いことに
大洲藩主、加藤泰侯が気づき磁器作りを命じる
その後たゆまぬ努力を重ね一大産業として発展するのです
地元で採れる陶石を用いた素地に、
薄藍色で手描き・染付した食器や柔らかい発色の青磁の花器など、
デザイン性が高く、おしゃれなものが多いので、女性に人気

唐津焼

佐賀県の陶器です
桃山時代から遡り、古い歴史を誇る伝統工芸「唐津焼」。
その後、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、朝鮮陶工を連れて帰り、
その技術を取り入れたことで唐津焼は生産量を増していきます。

唐津港から積み出される唐津焼は京都・大阪をはじめとする西日本に広がり、
焼き物のことを総称して「からつもの」と呼ぶほどに。
茶道の世界では古くから「一井戸二楽三唐津」と言われるように、
茶人たちから愛される茶陶としてその地位を確立していました。

有田焼・伊万里焼

満を持していよいよ有田焼・伊万里焼
磁器の発祥の地
有田焼は、出荷が始まった当初、伊万里港を積み出し港としたため、
伊万里焼とも呼ばれていた。
当時の伊万里焼と現代の伊万里市内で焼かれているものを区別するために、
かつてのものを「古伊万里」と呼ぶ。

現在では、佐賀県伊万里市内で製造されているものを伊万里焼、
佐賀県有田町で製造されているものを有田焼
隣接するこの地域で作られている磁器を総称して
伊万里・有田焼と呼ぶこともある。

その様式には古伊万里、柿右衛門、金襴手、鍋島等があげられる。
中でも、柿右衛門様式や、古伊万里様式の磁器は「白い金」とまで呼ばれ、
ヨーロッパの王侯貴族の間で絶大な人気を博した。
ヨーロッパを代表する磁器「マイセン」にも大きな影響を与えている。

絵付けの美しさはため息が出るほど

壷屋焼(つぼややき)

沖縄では焼き物を焼(やち)物(むん)と呼ぶ
沖縄での焼物は全てやちむんだが
その中でも代表的なのが壺屋焼
ぼってりとした厚みのある素朴な味わいのある焼き物
壺屋焼は荒焼(あらやち)、上焼(じょうやち)と呼ばれる2種類に分かれ、
主に酒や水の瓶などに使われた簡素な荒焼に比べ、
上焼は様々な種類の釉薬を使い分け1200度の高温で焼締めます。
こうして焼かれた壺屋焼はどっしりとした重量感と風格があり、
沖縄の豊かな自然風土を写し取った焼物

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